Vol.0272 NZ・生活編 〜移住オレンジ〜                  2005年1月1日

気づかないうちに、かなり疲れていたようです。カフェの椅子に座ると、なんだか立ち上がれないような気がしてきました。こういう時、必ず夫が注文に立ってくれるのは幸いです。「温と善はどうするんだ?飲み物?食べ物?」と、彼が子どもに聞いています。「両方は?」と、ねだるような長男の声。「だめだめ、どっちか一つ。パパたちだってコーヒーしか飲まないんだから。」と、たしなめる夫。

ニュージーランドに移住して来て6日目。家も学校も決まったものの引越しも通学も翌週からで、私たちは平日の午後に、一家揃ってシティーのカフェで一息入れようとしているところでした。移住エージェント、携帯電話ショップ、銀行、領事館・・・と、最初の頃は済ませる用事が多々あり、しょっちゅうこの界隈に4人で出没していました。新しい生活を一から築くのですから、やるべきことは山積みです。

夢と希望に満ち溢れていたつもりでしたが、実際は疲れていたのです。夫が運んできたコーヒーを両手で包み、わずかに暖を取りながら、それを認めざるを得ないことに気づきました。「せっかく夢がかなったのに、なぜ?」 嬉しさのあまり不安や不満などこれっぽっちも認めたがらない"ハイな自分"と、この一杯を杖にでもしない限り、立ち上がれそうもない"ローな自分"。この狭間で、私は混乱していました。「どういうこと?」

こんな思いを前にも一度味わったことがあります。長男を出産した直後のことです。天にも昇るほどの喜びなのに、実際は疲労の極地で睡眠薬をもらわないと眠れないほどでした。「出産でからだへの負担が極限に達し、神経が高ぶっているのよ」という産婦人科医の説明は理にかなっているものの、底なしの喜びに自分自身の肉体がケチをつけているようで、なんとも歯がゆい思いでした。本当は子どもの誕生という幸せに、身も心も委ねたいところでした。しかし、疲労が私を現実を繋ぎとめていました。

「移住ブルー?」 その時、ふとそんな言葉が頭をかすめました。妊婦の産後のあの状態を「マタニティー・ブルー」と呼ぶのであれば、その時の私はまちがいなく「移住ブルー」でした。「まさか!3年来の夢がかなって、とうとうここまで来たというのに、落ち込んでるっていうの?」 

その時、突然、「子どもたちに飲み物をおごるよ」と、マオリかパシフィック・アイランダーらしきポリネシアン系の男性店員が、カウンター越しに声をかけてきてくれました。体重が軽く100キロはありそうな若い人で、ウェービーで艶やかな黒髪を後ろで小さく束ねています。私たちは唯一のお客で、カウンター正面の二人掛けの席にいました。子どもたちも壁に沿った隣のテーブルで大人しく座っており、頼んだクッキーをさっさと食べ終わって所在なげでした。私と夫はたった今終えてきた銀行の事務手続きの話を、ぼそぼそしている最中でした。

「ホット・チョコレートでいいかな?」 彼がよく通る声で尋ねると、子どもたちは目を輝かせてうなずきました。褐色の大きな顔は表情だけでなく、中の中まで朗らかそうでした。「任せとけ!」と言わんばかりに彼は機械を操作し、あっという間に売り物と同じホット・チョコレートがカウンターに並びました。子どもたちは弾かれたように席を立ってカップを受け取り、"Thank you"と言って引っ込みました。私たちもお礼を言うと、温かい肉厚な笑顔が返ってきました。

そろそろ銀行に戻らなくてはいけない時間でした。子どもたちに「嬉しかったなら、もう一度お兄さんに"ありがとう"を言いなさい」と言うと、2人は素直にカウンターへ戻りました。その時突然、次男の善が、"Do you know how to call a deer with no eyes?"(目がない鹿(=ディア、deer)を何て呼ぶか知ってる?)と言い出しました。それは善が当時凝っていたクイズです。お兄さんはちょっと意外そうでしたが、すぐに "I don't know"と明るく答えました。善は「待ってました!」とばかりに、"No eye-deer"(「No idea=わからない」と「目がない鹿」をかけたジョーク)と、いつもの落ちでキメました。

一瞬、間があり、次の瞬間、意を解した彼が、「ハッハッハッハッハッハッハッハッハ!」と巨体を揺すりながら大声で笑い出しました。本当に「これは一本取られたぜ!」といった表情で、さかんに首を振っています。私たちは手を降りながら店を出ましたが、外の通りからも彼がカウンターに両手を付いたまま、大笑いしている姿がガラス越しに見えました。ウケにウケた善は得意満面で、いつまでも手を振っていました。

「抜けた!」 この瞬間、私は移住ブルーを脱しました。「大丈夫。何があってもここでやっていける。」 さっき流し込んだコーヒーのように熱い自信が、今度はからだの奥の方から湧き上がってくるように感じました。外は短い冬の日の午後。夕暮れまでには時間がありましたが、心なしか辺りはほのかなオレンジ色で、寒々とした冬の街を薄明るく包んでいました。「移住オレンジ・・・もう後戻りはないよ。」 善の小さな手を引きながら、私は足早に人込みを通り抜けていきました。

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「マヨネーズ」 おせちなし、お餅なし、お飾りなし、お雑煮なしのお正月は、結婚以来初めてです。おせちに未練のない私は「ふーん」てなもんですが、伊達巻"命"の夫は寂しそう。元旦は朝からパンでした。善はなーんと近所に上がりこんで、朝食からご馳走になってきました。2005年もバリバリ全開スタートです。温は年越しキャンプ中。

西蘭みこと