Vol.0304 NZ編 〜ガリポリの記憶〜 「2万人!」 報道に接し、息を呑みました。4月25日、ニュージーランドの遥かかなたトルコの片田舎のガリポリ(ゲルボル)に、ニュージーランド人とオーストラリア人が集まりました。その数2万人! 人数もさることながら、耳まで覆う黒いフードと温かそうな黒いコートにすっぽり包まれたNZのヘレン・クラーク首相がいるかと思えば、「クロコダイル・ダンディー」ばりのテンガロンハットを被ったオーストラリアのジョン・ハワード首相の姿も見えます。仕立ては良くても面白みのないスーツ姿のイギリスのチャールズ皇太子も。(彼は香港の中国返還式典でもこんな服装でした) 90年前の1915年のこの日未明、第一次世界大戦の西部戦線の膠着化に業を煮やしたイギリスは、戦局の打破に向けフランス軍とともに、トルコでの大規模なガリポリ上陸作戦を決行しました。イギリス軍にはアンザック兵("Australian and New Zealand Army Corps"の頭文字ANZACをとってイギリスが命名)と呼ばれた、NZとオーストラリアの志願兵も多数含まれていました。この時点で英仏連合軍のトルコ攻撃は数ヶ月を経過しており、ガリポリ上陸は奇襲作戦でも何でもなく、敵味方周知の危険な作戦だったようです。現状を知らないロンドンからの気まぐれな指令、現場の陣頭指揮も場当たり的で、投入した圧倒的な人数、優れた装備の割には、決して勝算の高い戦いではありませんでした。 一方のトルコは人数も、装備もかなり劣勢でした。しかし、その後名将と崇められ、後に「近代トルコ建国の父」となるムスタファ・ケマルに率いられていました。彼は勾配のきつい独特の地形を巧みに活かし、上陸してくる万を超える連合軍を常に高い位置から攻撃しては時間を稼ぎ、援軍が来るのを待ちました。連合軍が敵陣のお粗末さに気づき、一気に攻撃に出ていたら、歴史は変わっていたかもしれません。最終的に8ヶ月に及んだ戦いは、決死の国土防衛に出たトルコ軍の勝利に帰しました。 双方の被害は甚大で、上陸作戦開始後2日間での連合軍側の犠牲者は、送り込んだ3万人に対し死傷者2万人と言われ、食糧・水不足、劣悪な衛生状態の中で、多数の兵士が病に倒れていきました。この作戦での連合軍側の犠牲者は、NZで2千700人、オーストラリア8千700人、イギリス2万1千人、フランス1万人と言われ、祖国防衛を果たしたトルコ軍では実に8万7千人に達しました。(NZ空軍中将ブルース・ファーガソンのスピーチより)戦争というものの虚しさを、残された数字が余すところなく伝えています。 NZは1914−1918年の4年にわたった大戦中に12万4千人の志願兵を集め、そのうち10万人をアンザック兵として海外へ派兵しました。当時の人口は約100万人ですから、全人口の12%、全男性の4人に1人、老人・子どもを除いた成人男性で考えれば2、3人に1人が志願し、全男性の5人に1人が直接戦地に赴いた計算になります。この比率はヨーロッパ全土を巻き込んだ世界初の大戦の最中にあっても、驚異的に高かったようです。ちなみに人口650万人だったオーストラリアでは42万人(対人口比6.5%)が志願し、33万人がアンザック兵(全男性の10人に1人)として前線に立ちました。比率ではNZより低いものの、絶対数としてはやはり驚くべき数字です。 犠牲者で見てみると、NZは戦死者1万7千人(アンザック兵志願者の6人に1人)、傷病者が4万1千人(同2.5人に1人)となりと大変な犠牲を強いられました。オーストラリアは戦死者6万1千人、傷病者15万3千人と、いずれもNZと同率ながら、絶対数では桁違いの犠牲者を出しています。両国ともアンザック兵の6人に1人がガリポリで戦死していることになります。しかも、ガリポリは彼らにとり、実質的な初陣でした。それゆえに、両国民に長く記憶される悲劇となったのです。 それにしてもです! 90年も前の古戦場に関係各国首脳を始め、2万人もの人が自主的に集うという事実に私は驚愕しました。ガリポリは今でも辺鄙な場所で、交通手段は限られています。南半球からの飛行機代も大変な額になるでしょう。そこへ寝袋を担いだキウイやオージー(オーストラリア人)が続々と集まってきたのです。政府要人も、70代の復員軍人も、大多数を占めた無名の若者も、バス700台を連ね、ほとんどの人がクルマの入れない最後の5キロの道を歩いてやってきたのです。 早朝の4時半より、凍える寒さの中で「ドーン・サービス(夜明けの礼拝)」と呼ばれる式典が、厳かに始まりました。要人のスピーチ、詩の朗読、ドキュメンタリーの上映、数々の歌と、アンザックの歴史が繰り返し語られました。心を締め付けられるバグパイプの音が流れる中、見事な刺青をまとったマオリの戦士が舞う姿をテレビで目にした時、思わず涙がこぼれそうになりました。「この国で生きていくことに決めた以上、生き続けるガリポリの記憶を私も共有しなくては」と痛感しました。歴史の浅い国でこその、鮮やかな記憶。ガリポリで無邪気にテレビカメラに手を振っていた若いキウイとともに、少しでも史実に近づいていこうと思います。(つづく) (↑すべての戦没者のメモリアル・ホールでもある「オークランド博物館」) ****************************************************************************************** 西蘭みこと |