Vol.0311 NZ編 〜ガリポリの記憶 その5〜

「ニュージーランドにとり、またオーストラリアにとっても、我々若い国家が一人立ちした場所こそが、ガリポリだったのです。」 ニュージーランドのヘレン・クラーク首相のスピーチが、故郷から遠く離れたトルコのガリポリ(ゲルボル)の丘に響きます。この件(くだり)は報道でも大きく取り上げられました。国民の感情に最も訴える部分だったのでしょう。ガリポリの意義に曲りなりに気づいた私でさえ、この一言には胸を突かれました。小学校から、果てはそれ以前から家族の間でその意義を痛みとともに伝えられてきた人たちにとっては、どんなに感慨深かったことでしょう。

イギリスから自治を認められて8年目の1915年に決行されたガリポリ上陸作戦は、1世紀近くを経た現在においても、建国以来最大の悲劇です。首相の言葉は続きます。「我々(NZとオーストラリア)が自分たちをただの大英帝国の僕(しもべ)ではなく、れっきとした主権国家として自覚し始めたのは、まさにここ(ガリポリ)からでした。それゆえに惨劇を乗り越えた時、両国それぞれが自国の命運と世界での位置付けに新たな確証を持って立ち上がったのです。」 これは政治家の愛国的プロパガンダなどという薄っぺらいものではなく、両国民の多くに根付いた共通した想いのようです。

「バグパイプの演奏を聞くや、兵士の勇気が今の私の心にまで響いてくるようだった。彼らは戦いには負けたかもしれないが、我々の国家は彼らの犠牲のもとに生まれたのだ」(パース在住のボブ・キャンドラー氏、49歳。彼の祖父は第一次大戦から復員) これはオーストラリアからガリポリの式典に参列した無名の一市民の声ですが、内容は首相のスピーチと重なります。

「NZはガリポリ上陸作戦で、歴史上最悪の戦闘による犠牲率を見ました。国内の町、都市、地方を問わず、この悲劇から影響を受けずにすんだ家族や地域社会はほぼ皆無でした。」(クラーク首相) NZとオーストラリアから第一次大戦に志願したアンザック兵("Australian and New Zealand Army Corps"の頭文字ANZACから命名)のうち、6人に1人がガリポリで戦死しています。犠牲者数では泥沼化した西部戦線の方が遥かに多かったのですが、実質的な初陣でありながら短期間で壊滅的な犠牲を強いられたガリポリの衝撃は、歴史という枠組みの中に納まらない、癒えることのない民族の傷跡なのです。           (ロトルアのアンザック兵の墓地。今でもたくさんの花が→)

その中で、「あの作戦は本当に必要だったのか?」「イギリスに捧げた忠誠は報われたのか?」と、キウイたちは今までもこれからも、永遠に答えが出ない問いを問い続けていくのでしょう。90年という年月を経て、NZ国軍の参謀総長、ブルース・ファーガソン空軍中将は、「ガリポリ上陸作戦とは、我々の大英帝国への貢献(subservience)の頂点だったのかもしれない」と、自らのスピーチの中で心情を開陳しています。"subservience"には「卑屈」や「おべっか」という意味あいもあり、こうしたニュアンスが強く意識されていたことは明白です。

さすがにこの件は賛否両論で物議を醸し出しました。NZは主権国家といえども、英連邦に属し、いまだに国家の長にイギリス女王を戴く国です。国内メディアがこぞって、「参列していたチャールズ皇太子は何も反論しなかった」と、ホッとした様子を素直に報じていたのには思わずクスリとさせられました。クラーク首相はもちろん、こうした率直さを歓迎しています。賛否は二の次で、まず自由に意見が言えることこそがこの国の真骨頂ですから、公の場での勇気ある発言には、拍手を送りたいところです。"生きた記憶"は百家争鳴の中で評価され、いずれは歴史の枠組みの中に定位置を見出していくのでしょう。

ファーガソン中将のスピーチにも、印象に残る件があります。「我々はあの経験を通じて貴重な教訓を得ました。今やいかなる司令官も、若い命を不必要に危険にさらすことはありません。第二次世界大戦でさえ、我々の編隊は熟慮の末に戦闘に参加し、フレイバー軍司令官は犠牲率を凝視し、犠牲が甚大な場合には戦闘見送りもためらわず、1944年のモンテ・カッシーノの最後の戦闘直前にはそれを実行しました。彼自身ガリポリ上陸作戦に参加しており、ガリポリにおける悲劇的な無為の死への憎悪は、後の戦いにおいてニュージーランドを救ったのです。」(一部抄訳)

この発言から彼の軍人としての立場を差し引いても、ガリポリの教訓が生かされているのは事実でしょう。オーストラリアでも同様だったそうです。第二次大戦でさえ、ガリポリほどの人命が一度に失われたことはありませんでした。「熟慮の末に戦闘に参加」という姿勢は、今でも生きています。アメリカ、イギリスを中心に強硬に推し進められたイラク侵略に、NZは参加しませんでした。隣国のハワード首相が"忠犬ハワード"とあだ名されるほど、アメリカに追従したにもかかわらず、です。

NZは政治上ばかりでなく、通商上もアメリカから圧力を受けつつ、とうとう首を縦に振りませんでした。「これがニュージーランド人のやり方なのよ。」ガリポリの丘でこれだけ大勢のキウイが集まったことへの感想を聞かれた、クラーク首相の返答。カメラに映し出された、一歩間違えればふてぶてしくさえ見える分厚い微笑みには、自信と喜びが漲っていました。それをテレビで観ていた私も、多分骨太な笑みを浮かべていたはずです。

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「マヨネーズ」 この手の話は書き出したら終わらないので、今回はここで「完」とします。あと1回「余話」をお送りするかもしれませんが、続きはまた来年。参戦したマオリやアイランダーの話など、興味は尽きません。ご高覧、お寄せいただいたご感想に感謝します。

西蘭みこと