Vol.0339 生活編 〜ライフ・アフター・オイル−1986年〜          2005年8月27日

記憶に間違いがなければ、1996年のことだったと思います。香港で勤務していた金融機関が、日本のある地方電力会社のために会社説明会を開くことになりました。会社説明会とは、企業が新規上場や社債発行(起債)で市場から直接資金を調達する際に、株や債券に投資してもらうため、投資家に対して知名度やイメージ向上を狙って行う一種のプロモーション活動です。ここでの感触が調達規模に影響してくることもあるので、重要です。

起債案件だったにもかかわらず、日本人というだけで株式担当の私にも召集がかかりました。香港人の同僚に、
「何を出すの?円債(円建て債券)?」
と聞くと、
「何でもいいらしいよ。投資家の反応を見たいんだって。そういうのが一番困るんだよね〜。円債なら興味ないっていう客もいるからさ〜。」
とぼやかれ、彼は
「 "フリーランチ(ただ飯)"だと思って、とにかく来てくんない?」
と、親しい機関投資家に手当たり次第電話をかけては、5つ星ホテルでのランチ付き説明会への参加者確保に必死でした。
  (十数年も闊歩していた香港の金融街セントラル→)

私は説明会には参加せず、夜の接待に借り出されました。一流ホテルの中華レストランの個室を借り切っての豪勢な夕食。接待ならではのお決まりのコース料理。皮しか食べない子豚の丸焼き、アワビの姿煮、フカヒレスープ・・・、宴はスルスルと進んでいきます。テーブルは "おエラいさん"と世話係が座る主賓席と、"その他"が座る2卓でした。私は"その他"に座り、電力会社のどう見ても20代の若い社員と話をしていました。

「いかがでしたか説明会は?」
と尋ねると、
「いや〜、驚きましたよ。"原子力発電は安全ですか?"なんて質問が出て。」
という意外な返答。どう応えていいのか言葉に詰まってしまいました。「"安全神話"をつつかれて手こずったのか、それとも・・・」と思っていると、
「そんなもの、安全に決まってるじゃないですかね。日本でそんなこと聞く投資家、いませんよ。やっぱり遅れてますね、香港って。いや〜、ホントに驚きました。」
と、若い2人は「まいったよな〜」と言うように顔を見合わせ、苦笑していました。
「安全?決まってる?香港が遅れてる?」
今度は私の方が二の句が告げなくなってしまいました。

ちょうどその10年前の1986 年。旧ソ連のウクライナでチェリノブイリ原発事故が発生した時、私はパリに住んでいました。あの時のヨーロッパの衝撃を、私は肌身で知っています。「みこと、1986 年という年を覚えておくのよ。何年経ってもこの年のワインを飲んではダメよ。ワインなんて、いろんなところで作ったものを混ぜてるんだから」と、忠告してくれたフランス人の友人もいました。いくら遠くても地続きの場所で起きた恐ろしい事故。原発開発に絶対の自信を持っていたフランスの狼狽と蹉跌は相当なものでした。

債券は国際金融商品です。世界中で同じ銘柄がそれぞれの時間帯に合わせて取引されています。時間帯からアジアともアメリカとも取引ができるロンドン拠点に力を入れる金融機関も多く、同僚でも何人かの債券担当はロンドンから来ていました。説明会に集まった投資家や債券担当にもイギリス人や、見分けはつきませんがイギリスで教育を受け英国籍も持っている香港人が多数いたはずで、彼らが全体の半数近くを占めても不思議はありません。国際商品である分、債券は株式よりも常に、"外人部隊"の比率が高いのです。

その彼らのほとんどが当時の私と同年配の30代半ばか、それ以上だったことでしょうから、かなりの人がチェリノブイリの衝撃を知っているばかりか、私のようにその時ヨーロッパにいた可能性さえあります。そうした人たちの間から「原子力発電は安全ですか?」という質問が出たことは、私にとってごく自然なことでした。むしろ、なんの根拠もなしに「安全に決まってるじゃないですか」と断言する電力会社には、絶句せざるを得ませんでした。けっきょく起債話は流れ、それきり耳にすることはありませんでした。

翌97年3月。茨城県の東海村の核燃料再処理工場内で火災発生。その後の爆発で37人の作業員被ばく。 97年4月。敦賀市の「ふげん」で放射性物質を含む重水漏れが発覚。
99年9月。茨城県東海村で臨界事故。3人が被ばくうち2人が死亡。
2004年8月。敦賀市の美浜原発事故で11人死傷。日本の原発史上最悪の事態に。

あの時の若い2人は今頃、中間管理職になっていることでしょう。「安全に決まってる」と香港人を鼻で笑っていた彼らは今、原発の安全性に対し、投資家にどう説明しているのでしょう? 

石油や天然ガスなど化石燃料が枯渇すれば、多くの国が原発を代替エネルギーに選ぶことでしょう。中国など、今後は原発ラッシュになりそうです。9%にも達する高成長を続けるためには電力不足などあってはならず、事故や使用済み燃料処理に手を焼いても国内に核を放ち、すべての不満を黙らせる成長の火を絶やさないことが最大命題なのでしょう。これもまた、経済という「化け物」のなせる業(わざ)です。

私は1986年を忘れません。友人の忠告通り、ワインを買う時はしばらくの間、必ず生産年を確認し、パリを、チェリノブイリを思い出していました。(さすがに今やそんなに古いワインは見かけませんが) 「ライフ・アフター・オイル」(石油が枯渇した世界)を想うにつけ、20年前の記憶は薄らぐどころか深まるばかりです。非核政策を掲げるニュージーランドに移住してきたことも、決して偶然ではないと思っています。
(不定期でつづく)

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「マヨネーズ」 経済っぽ〜い話が続いており、ご興味ない方には申し訳ない限りですが、どういう訳か頭のギアが「経済」に入りっぱなしのようです。(新コラムまで始めたくらいですから、かなり重症^^A) 選挙期間中ということもあり、天下国家を想う日々^m^

西蘭みこと