Vol.0346 NZ編 〜国家を鍛える負荷〜                2005年9月23日

彼女は明らかに追い詰められていました。崖っぷちではないにしても、際どいところまで来ていました。いつも通り冷静沈着に見えるものの、あと何歩下がれるかを探るために、かかとに神経を集中しているようでした。それでも話が上の空にならないところはさすがですが、言葉には太い芯が感じられませんでした。自分を凝視する無数の目に悟られないよう、ほんのわずかずつ慎重に、彼女は後ずさっていました。

これが、3年前には「ビーハイブ(蜂の巣)の女王」と呼ばれ(ビーハイブはNZの国会議事堂。蜂の巣そっくりな外観がネーミングの由来)、シャンペングラスを満足気に掲げた姿が世界中に打電されたヘレン・クラーク首相の、今の姿です。あの2期目当選から3年、任期満了で臨んだ総選挙。彼女にとってはニュージーランド史上初となる3期9年の長期安定政権への扉を開く、輝かしい選挙のはずでした。圧倒的な人気を誇り、この国がイギリスと縁を切り立憲君主制から共和制に移行した場合、「初代大統領に相応しいのは?」という調査で、他者を大きく引き離して1位に名前が挙がるほどの人気ぶりでした。

彼女にとって今回の選挙は、一定期間ごとに開催しなければならない株主総会のようなものだったはずです。実績を並べていけば賞賛が得られ、今後の見通しを示せば"株主"である有権者は満足してくれるはずでした。"配当"代わりの社会保障、年金も卒なく抜かりなく、何よりも経済先進国では最低の失業率という"好調な業績"が高く評価されるはずでした。小うるさい総会屋などいるはずもなく、一緒に仕事をしてきた"同僚"とともに、株主の信任を確認すればいいだけの話でした。

彼女たちに対し、「敵対的買収を仕掛ける」と息巻く、国民党と名乗る一群がいたものの、相手はあまりに遠く弱く、ほとんど視界に入っていませんでした。そんなことは「ありっこない話」だったのです。しかし、彼女は気がついていませんでした。総会を簡単にシャンシャンシャンで閉めくくるつもりのない人たちが、日増しに増えていることに。世論も、果てはその人たち自身も、自分たちが一大勢力になりつつある事実に半信半疑でした。

彼女は7月末に投票日を9月17日に定め、選挙戦の幕を開けました。8月初旬には懸案の一つマオリ政策を発表し、下旬には本来は乗り気でなかったものの、国民党の目論見が失敗に帰すことを確実にするための減税案を出し、準備は万端のようでした。しかし、2党の支持率は拮抗し、調査機関やタイミングによっては彼女の労働党の方が国民党を下回る結果になってしまいました。「ありっこない話」が現実味を帯びるにつれ、話に乗る人が増えてきました。「負け戦にはかかわりたくなくても、勝算があるのなら、ぜひ」と。

彼女は8月末の時点で、国民党が大型減税案に物を言わせて若干は議席数を上げると見ていたものの、「彼らにはそれしかないのよ」とまだまだ見くびっていました。その代わり、9月に入って現実を認めざるを得なくなるや、焦りが加速度的に上がってきました。前へ前へと進んできた彼女にとって、ほとんど初めて経験する後退。得意技は攻めばかりで守りの決め技がありません。毅然とした態度で立ちはだかっているように見せながらの後ずさり。高い精神力と身体能力が要求される政治家としての踏ん張りどころでした。

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「選挙に行こう!」で取り上げた政治ディベートの皮切りは8月中旬でした。あの時の彼女は実に堂々と自然で、いつもの通りでした。視聴者の反応も概ね高水準で、現職として文句なしの仕上がりでした。一方、国民党のブラッシュ党首は返事に窮したり失言したりと、年齢がいっている分経験の浅さが目立ってしまい、「この人を次期首相にするのは・・・」と、不安に感じた人も多かったことでしょう。

しかし、その1ヵ月後、選挙直前に行われた最後のディベートでは様相がガラリと変わっていました。冒頭のように、クラーク首相は明らかに追い詰められていました。セロテープで固定したような不自然な笑みを絶やさずにいる姿は、威厳のあるポーカーフェイスがトレードマークなだけに、物悲しくさえありました。彼女の笑顔の素晴らしさは、めったに微笑まないからこそ、雲がすっと引いた夜空に満月を見つけるような清々しさがありました。かたやブラッシュ党首は短期間に驚くべき成長を遂げており、初回の作り笑顔が消え、険しい表情も臆することなくするようになり、かなり自然体です。受け答えもずっと堂に入っており、何度もつつかれたであろう弱点にも、平然と答える技を身に着けていました。

そして迎えた9月17日。即日開票で出た総選挙(一院制、小選挙区比例代表並立制)の結果は、122議席中、労働党が50議席、国民党が49議席とたった1議席差の大接戦でした。いずれも過半数を超えなかったため、新政権は今のドイツ同様にどちらが連立政権を樹立できるかにかかっています。そのカギを握るのが20万票の"大票田"、海外からの在外投票分で、10月1日にこれを含めた最終的な開票結果が出ます。結果いかんでは議席配分が変わり与野党逆転の可能性さえあります。彼女は本当に崖っぷちにいたのです。
(←開票翌日の新聞の見出しは「ヘレン・クラーク(今のところは)」)

「ビーハイブの女王」は硬いというより険しい表情で、報道陣のフラッシュを浴びていました。勝ったのか負けたのか、わからないほどの接戦。しかし、私は「この緊張が政治を磨き、この国を鍛える」と感じていました。友人のメールにあった「筋肉を鍛えるのはおもり。心を鍛えるのは試練」という一言は、そっくり国家にも当てはまりそうです。緊張という負荷をかけることで、政治手腕が磨かれ、国家が鍛えられる――。新政権がこれを糧に筋肉をつけ、贅肉を落としていくのであれば、多大な時間とエネルギーを費やした論議も、雨の中の投票も報われることでしょう。10月1日、この国は一回り強くなります。

西蘭みこと