「西蘭花通信」Vol.0396  生活編 〜感動の記憶T〜            2006年5月22日

「ねぇ、走りに行かない?」
ある夕方、所在なげにテレビを見ていた次男の善(9歳)と近所の友だちシオネ(仮名、10歳)に、腕を振って走る真似をしながら声をかけると、ふたりは耳元で軽く手を振り、ニヤニヤしながらノー・サンキューのつれないポーズ。
「暑くも寒くもなくて走るのにちょうどいいのに。」
と残念に思いつつ、私は着替えに行きました。

ランニングシューズを履いて外に出ると、リビングに居たはずのふたりが立っています。
「ママ、やっぱりボクたちも行く。」
「OK、そう来なくっちゃ。じゃ、フードタウン(近所のスーパーの名前)まで走ろうか?」
と提案しながらシオネの様子をうかがうと、小さくうなずいています。往復4キロ弱の緩やかながら行きはずっと上り坂のコース。普段から6キロを走る善にはどうということはありませんが、シオネにとっては初挑戦です。

クリクリの髪に褐色の肌、澄んだ瞳がキラキラ輝くトンガ系キウイのシオネは、小学校6年生。身長150センチ台ながら、体重は一時60キロを超えていました。さすがにこの体重では大好きなラグビーのチームに入れないので(危険を伴うスポーツのためラグビー協会の強い指導の下、各年齢の選手に体重制限があります)、シーズン前に必死でダイエットをしたらしく今の体重は56キロとか。いずれにしてもこの年齢では相当の大柄で、善の体重のざっと倍です(笑)

彼はなかなかハンサムで、大のスポーツ好き。ラグビー、クリケット、バスケットボールといろいろやっていて、運動神経も良さそうです。しかし、どうしても動きが緩慢になりがちで、ちょっと善とふざけただけでも息が切れ、肩で息をしています。

(ラグビー部に入るだけでなく学校代表になれるかどうかはみんなの一大事。善もシオネも今のところは代表入り。緑が善たちの学校→)

「まずいな、シオネのあの太り方。今からあれじゃ、この先大変だぞ。」
クラブチームで子どもラグビーのコーチをしている夫は、常日頃から彼の体重を気にかけています。もちろん、私もです。

以前、学校の運動会に行った時、高学年全員が参加する800メートル走で、シオネが最後の数人となって走っていたことがありました。トラックの片側の生徒や保護者がかたまっているコーナーに差しかかると必死で走るのですが、反対側では歩いていました。そうは言っても見通しのいいグラウンド、誰の目にも彼が走ったり歩いたりしている姿は丸見えでした。それでもシオネは、みんなの前では走って見せたのです。

「ひとつだけ約束して。どんなにゆっくり走ってもいいから、立ち止まらないこと、歩かないこと。これだけは守って。大丈夫よ、きっとできるから。」
門の外でふたりに言い渡すと、シオネも神妙にうなずいています。自信のなさと、挑戦への意欲が心の中でせめぎ合っていたことでしょう。本当の距離を知らなくても、スーパーが800メートルより遠いのは明らかです。
「OK。」
と言った輝く瞳には決意が感じられました。

「じゃ、行きましょう。みんな好きなペースで走ってね。一緒に行こうとしなくていいの。私は最後から着いてくから。」
善は散歩中のように気軽に話しながら走っていましたが、じきに息が上がって返事が苦しくなってきたシオネを後に、ひとりで走り始めました。シオネが後を追おうとしたので、
「行きは上り坂だからゆっくり行きましょう。善はウサギとカメのウサギだからどこか途中で待ってるか昼寝でもしてるわよ。」
と、後から声をかけると、安心したようにシオネのペースが落ちました。

タッタッタッタッ・・・
シオネはしっかりとした足取りで、脇をうまく締めながら坂道を登っていきます。後から見る限り、癖のない、無駄な振りもないとても綺麗なフォームで、思ったほど苦しそうでも重そうでもありません。ゆっくりながら安定した走りです。
「速いじゃない、シオネ。追いつけないわ。」
と声を掛けると、背中が笑っていました。

「追いつけない」は励ましの台詞としても、速いと感じたのは本当です。800メートル走の姿を知っているだけに、坂道でこれだけ走れるとは思っていませんでした。私が初めてこの坂を走った時は予想以上に苦しく、かなりペースを落としながらなんとか走り抜けたものです。それと比べればシオネには遥かに余裕が感じられます。

「ここで1キロよ。」
しばらく走ったところで私がかけた言葉に、シオネは驚いたように振り向きました。その表情は私にとって、いいえ、すべての親にとって、とても懐かしいものでした。赤ちゃんがふと寝返りを打てた瞬間、何度も失敗した挙句に座れた瞬間、夢中で遊んでいるうちに自分がつかまり立ちしているのに気付いた瞬間、思いがけず一歩を踏み出して歩けた瞬間――、そんな場面で目にする、驚きと喜びで輝いた表情。無心の果ての無垢な感動は、本当に清らかで美しい顔を作るものです。

「すごいでしょ?もう1キロ走ったのよ。学校の800メートル走なんて目じゃないわ。」
私は敢えて彼の苦い記憶に言及して、走った距離を称えました。この感動と自信が、残りの3キロを少しでも楽に、楽しくしてくれると信じたからです。
「やってみるとけっこう簡単でしょ?シオネのフォームはとてもきれいだから、ちょっと走って慣れてくれば今よりずっとずっと速く、遠くまで走れるようになるわ。」
この一言はすべて私の本心でした。(つづく)


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「マヨネーズ」
大手量販店に買い物に行くと、近所の子どもの友人のママにバッタリ会いました。手にはかなりイケイケの勝負下着を手にしています。思わず、
「スゴいじゃない♪」
と声をかけると、
「ほら、私って今、オトコがいないじゃない?だからこんなの着ても見せる人がいないのよ。だからこれはプレゼントなの。」
と残念そう。

なんとなくふたりで小さく溜息。

西蘭みこと