「西蘭花通信」Vol.0429  生活編  〜12年目の試練V〜        2007年1月20日

(これは連載です。これまでの話は「12年目の試練」「12年目の試練U」からどうぞ。)

大切な人たちが次々に大きな問題に直面してしまい、私まで一緒に考えこんでいるうちにふと気づいた、彼ら全員が昨年の干支「戌年」だったという事実。香港の風水師の教えに従えば、彼らは12年で完結する干支の最終年の試練に直面していたことになり、それを乗り越えてこそ次の一段高い12年が開けるはず。そうであるならば、私にできることは彼らを励まし、常に想い続けていることぐらいでした。

雇用、人間関係、夫婦の不仲、健康――年齢も、性別も、国籍も、住んでいる国もばらばらな彼ら。抱えている問題もまたそれぞれです。問題を前に立ち往生し、ある時は怒り、ある時はふと穏やかな気持ちになり、何度も荒波に揉まれ、岸壁に叩きつけられるよな経験をしてきました。どうか12年目の苦しみが、深い思考と賢明な行動へとつながり、彼らの一生の糧となりますように。

前回からの続きで、引き続き私の年女の年を振り返ってみましょう。
24歳:2年の留学ですっかりなじんでいた台湾を24歳の誕生日の2週間前に離れ、独りパリへ発ちました。大好きなアジア。大学1年の末以来、公私ともにどっぷりと5年間浸かっていたアジア。それなのに、
「社会に出る前に他の世界を見ておきたい。それでもアジアが良ければ迷うことなくアジアに沈もう!」
と、かなり実験的に渡仏しました。

冬といえども暖かい台北から厳寒のパリへ。石畳から立ち上ってくる冷たさは私の足元をつかみ、ふと街中で立ち止まってしまうことがありました。この信号を渡ろうか渡るまいか――そんなことを決めかねてしまうのです。見た目の暮らしは順調でしたが、私の心は空虚で、生活の照準をどこに定めたらいいのか、パリにいる自分をどう正当化したらいいのか、手応えのない時間はパリを離れる日まで続きました。

「心から望むこと以外、してはいけない。人生に選択はあっても比較はない。」
ということを、あの年に学びました。当時の私にとりアジアの良さ、かけがえのなさを他の場所と比べる必要などまったくなかったのです。自分の気持ちを頭から信じず、この目で確かめに行き、自分を納得させようとしていたのです。途方もない回り道。心からの想いに素直に従わなかったツケは重いものでした。「アジアか他の場所か?」という問いへの答えは2日目に出ていました。しかし、せっかく行ってしまったので1年はいることにしました。

「非を認める。間違ったなりにも与えられた機会と時間を大切にする。」
この心の切り替えも、後々大きな意味を持ちました。来てしまったことを後悔するよりも、社会に出るまでの最後の1年を大切にしようと思い直しました。気持ちが吹っ切れると同時に、親しい友人ができ、アルバイトが見つかり、バイト先でいい下宿先を教えてもらい、同僚の紹介で日本語や中国語を教えるという別の仕事も見つかり、どんどん生活の基盤ができあがっていきました。当時は気づいていませんでしたが、 「必要な物や情報は必要な時にこそ入ってくる」 という状況だったのだと思います。

方向性は間違ってしまったものの、あの1年は今までの人生で最も充実した「学びの年」でした。初めて西洋暮らしを経験し、人のもてなし方、旅行ではないバカンスの過ごし方、流行に流されないスタイルの磨き方、食器から絨毯まで本当にいいものの見分け方、大人の男女関係、リネンのしまい方、下着の選び方、若さを凌ぐ円熟の尊さ、使用人へのものの頼み方、収入と天秤にかけずに夢を追う生き方、いい靴を素足で履く愉しみなど、後で必要になる貴重な情報や体験を知らず知らずのうちにインプットしていました。アジアを疑った非を素直に認めた元は、十分に取り返していたのです。

あの年はまた、最も独りになった年でした。徹底的に自分と向き合ううちに、問題が起きても心を研ぎ澄ませていれば、自分が心から望んでいることを探し当てられるようになりました。波立つ水面もじっとしていればいつかは鏡のように静かになります。そうすれば底に沈む「本望」がはっきりと見えてくるものです。それが見えたら、難しそうでも不利になりそうでも、それに従うのです。

深い本心は浅はかな計算など到底及ばないものです。答えも真実も、いつも自分の中にあります。それを見つけ、行動に移すコツと勇気を学べば人生の迷いは激減します。迷いとは、
「いかに自分が不利にならないよう、傷つかないようにするか」
という計算でしょうから、計算そのものを止めてしまえば、本当に心もからだも軽くなります。あとは自分の本心に従うのみ。相談する人も愚痴る相手も本当は必要ないのです。最もらしいことをアドバイスされても、それが本心と食い違えば迷いは深くなるばかりです。

長い独りの時間を経て、機が熟したのを悟りました。予定を早めに切り上げ、私はまっすぐにアジアへ、香港へと飛び立ちました。一生に何回もない年女の年を、ひょこっとパリで送ったことは決して偶然ではないでしょう。あの年に学んだことはその後の人生に深く根を下ろし、西洋で暮らしたノウハウはニュージーランド移住後にも大いに役立っています。「雨降って地固まる」という事実をことわざ以上に会得し、間違うことをより恐れなくなったことが、実は最大の収穫だったのかもしれません。(つづく)

(今でも私の生活の中に息づく、鮮やかでほろ苦い思い出。オークランドのフレンチ・マーケットにて→)

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「マヨネーズ」

香港に渡って25歳の誕生日を迎えるやすぐに仕事が決まり、長年の夢だった、
「25歳までは自由に。その後はバリバリ働く」
を実現できました。しかし、アフター5をフランス語で過ごすことになるとは想像もしていませんでした。当時の話はコチラコチラから。

西蘭みこと