「西蘭花通信」Vol.0449  生活編  〜老いと痛み〜     2007年10月18日

15年間我が子同然に可愛がってきた飼い猫のピッピを亡くし、私は人生で初めて「老い」と向き合いました。
「これからの人生は足し算ではなく引き算――。」
「これから何度もこういうことが起きる。ピッピは終わりではなく、始まり――。」
「これが老い――。」
さまざまな想いが心を去来しました。

それまで私にとっての「老い」は、世間一般で言われるものでした。「不老長寿」「年はとりたくない」と言われるように、「老い」はあってはならない、否定的なものでした。誰にでも訪れる自然なものでありながら、忌み嫌われ、拒まれているもの――。私はその矛盾を深く考えもせず、一般的な見方に迎合していました。

それにもかかわらず、全面的に否定する気にもなれずにいました。年齢を重ねた方から学ぶことの多さは疑うことのない事実であり、何気ない一言や何かに対する造詣の深さに尊敬の念を禁じえないことはよくあります。また、私には若い頃から、日本人の間で非常に普遍化している「若さへの崇拝」が欠落していました。年齢を尋ねられれば、いくつの時でもはっきと答えてきました。そのため息子たちは長い間、「女性に年齢を聞くのは失礼」という世間の常識を知らず、
「ボク、いくつ?」
と聞かれると、
「○○クンのママはいくつ?」
と、鸚鵡返しに聞き返し、こちらが慌てることがよくありました。

今回、老いの片鱗を生涯初めて実感し、まずなによりも感じたのは、 「人の痛みがわかること」 でした。ずっと足し算、時には掛け算の勢いで来たこれまでの人生で経験する最初の喪失の痛み――これは経験しなければわからないものでした。離婚した友人たちが身を削るほど泣き明かしていた時、私はそばにいて慰めてきましたが、彼女たちの本当の痛みはわからなかったと思います。今なら、少しはわかるかもしれません。

これは大きな発想の転換でした。今までの「老い」は、腰が曲がったり、顔にシワが刻まれたり、声がしゃがれたり、反応が鈍くなったり――と目で見える、自分以外の誰かの身に起きる表面上の変化でした。しかし、初めて実感した「老い」は意外にも自分の内面の変化だったのです。

今回の悲報にたくさんのお悔やみや労いのお言葉をいただきました。その中で、「掲示板」でお馴染みの婆さまから以下のような書き込み(抜粋)をちょうだいしました。

婆さまです みことさん。
婆さまなんかねー 
この歳になったらねー
何人もねー 見送つてきたしねー 

今のみことさんの気持ちちょつとわかるよー 

がんばっとったらあとのことはねー
神さんちゃんと決めてくれとうはずやからねー 

ほんなら、さよなら


婆さまはとてもそうは見えませんが、もうすぐ70代という方です。1995年の阪神大震災を経験されています。それでもお会いすれば豪快に話して、笑って、飲んで、政治を語り、ニュージーランドやオーストラリアなどオセアニアを誉め、本業の「食」となったら、それこそ知識と経験の宝庫で話題は尽きません。そのたびに、
「婆さまなら、いつでも、どこでもしっかり、楽しくやっていけるんだろうなぁ。」
と、芯の太いタフさと柔軟さを頼もしく思っていました。

そんな朗らかな方からの、
この歳になったらねー
何人もねー 見送つてきたしねー
 
という一言には不意をつかれました。70年近く生きてくれば当然のことなのでしょうが、どうしても自分の身に引き寄せてみることができませんでした。

それに続く、
今のみことさんの気持ちちょつとわかるよー
 
これが真実であること、婆さまが本当にわかってくださっていることがはっきりと感じられました。多分、「ちょつと」ではなく、深く深く・・・。

そして、
がんばっとったらあとのことはねー
神さんちゃんと決めてくれとうはずやからねー
  
語尾を引っ張る話し言葉そのものの婆さまの言葉に、ふっと肩の力が抜けるようでした。これに比べたら、今まで自分が口にしてきたお悔やみや労いはなんとありきたりなものだったことでしょう。常識と想像力を寄せ集め、誰かの痛みをやや狼狽気味に囲っていただけのように思えてきました。それぐらい、婆さまの言葉はふっと心の中に差し伸べられてきたのです。

これが私にとっての「老い」なら、望むところです。不老長寿の長寿だけかなえても老成しないのであれば、鼻摘みの年寄りになっていくだけでしょう。

「老い」――ピッピは思いがけない置き土産をしていってくれました。今頃は身体だけは大きく、物はたくさん持っていても、精神的にはなかなか成長しない「二本足」を、日当たりのいい蓮池の淵で前足にあごを載せながら、のんびりと見下していそうです。

     (がんばって年とるニャ〜ン。おいらのブログはこっちから→)

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「マヨネーズ」
パソコンの前にピッピの写真を置いているので、いつもピッピに見られているようです。猫は小さいので抱いたりなでたり、つい赤ちゃん扱いですが、精神的にはどれだけ上手(うわて)か。一緒にいる時間が長くなればなるほど、人間がとうに失ってしまった、本来すべての動物に備わっていたんであろう霊性の高さを感じたものです。

ピッピが逝った3週間後には、外飼いにしていたタビという猫まで交通事故で逝ってしまいました。2匹はたくさんの教えを残していってくれました。タビの話はまた後日にでも。

西蘭みこと

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