「西蘭花通信」Vol.0500  生活編  〜人生の片付け〜       2010年1月4日

ちょうど1年ほど前、日本に帰国していた時のことです。フランスで知り合った20数年来の親友とたわいもない話をしながら、
「人生っていうものは、年齢に合わせて規模を小さくしていくのがいいらしいわよ。これからの人生は先細りなのかしらね〜」
と、冗談半分に「養生訓」の受け売りをしていると、
「そうよ、私なんかもう、人生の片付けに入ってるわよ。」
と、あっさり肯定されてしまいました。

人生の片付け――――
その一言は電流のように私の身体を走り、
「ああ、今回の里帰りはこの言葉と出会うためだったんだな。」
と、咄嗟に悟りました。誰かの一言に鳥肌が立つ想いなどそうそうあるものではなく、あるとすれば脳裏に深く深く留めるためでしょう。その時点で私も彼女も46歳。すでに人生を折り返したと思っても不思議はない年齢です。

しかし、彼女は私の周りの誰よりもビッグに生き、大手外資系企業の役員という社会的地位、日本中のマラソン大会を転戦して回る体力、一人娘の海外での大学進学を待つばかりという時間的余裕といい、すべてが桁違いでした。そんな彼女の人生は、末広がりでいつまでも前途洋洋に見えます。その本人をして、「小さく生きること」をすでに実践しているとは!先を行く人は、どこまでも先を行くようです。

翻って自分の人生を振り返えると、我慢と努力、親と学業に支配された10代を終え、若さと好奇心、仕事と無鉄砲で広がり放題だった20代。その終わりに結婚し、妥協と交渉、家族と調和を生きた30代。その終わりに出会ったニュージーランドに移住したのは42歳のときでした。あれから5年半が経ち、今のところ私の40代は、不惑と自足、均衡と平安といったかなり抽象的、精神的なものです。

抽象的、精神的な不惑と自足、均衡と平安を敢えて現実に置き換えてみると、ボランティア先のチャリティーショップに香港からも持ってきたブランド品の服だの靴だのを寄付しながら、帰りに古着のTシャツを200円かそこらで買ってくる、というのがいい例でしょう。グッチやプラダとなれば古くてもネットオークションやブランド品ばかりを扱う古着屋で売ることもできますが、そこで得られるであろう幾ばくかのお金には不思議と興味が湧かず、物々交換感覚で何気ないTシャツを手に入れる方が、「今の気分」なのです。

その気分を説明するとすれば、大枚を払った物であっても「今の自分には不要」という確固とした判断、家にいるならTシャツが一番という現実、寄付した上で代わりの物を手に入れる過不足のなさ、そして「自分の不用品が誰かの役に立ち、誰かの不用品を自分が役立て、その両方で貢献ができる」という充足感、とでも言いましょうか。

「あれもほしい、これ試してみたい」と足が棒になるほど見て回り、慎重ながらも積極的に買い物をしていた20代、好きなブランドのショーウィンドウに「ニューアライバル(新着)」が並ぶたび、スタスタと店に入っていきパッパと買っていた傲慢かつ時間のなかった30代を経て、気に入った古着に身を包みながらゆったりと落ち着いている、今。凝った紙袋を開け、丁寧に包まれた薄紙を解き、匂い立つような真新しい服に袖を通す高揚感と満足感は、懐かしみこそすれもはや思い出です。

存在そのものにある程度チカラの備わった物(ブランド品などはこれに該当するでしょう)の力を借りずとも、別の方法で高揚感や満足感を得られることを学び、その上で自分中心のこうした感情を手放し、自らを解き放った後に訪れる心の平安の方が遥かに遥かに豊かで、長く続く喜びだということを40代になってから学びました。

足し算か引き算か。これは大きな価値感の転換です。特に仕事も家庭も趣味もと、足し算どころか掛け算の勢いで生きてきた私にとり、その減り方たるや割り算の勢いかもしれません。しかし、40代も後半に入り50代が見えてくると、生活の中から減っていくもの、削っていくもの、消えていくものに前ほど不安を覚えなくなりました。それらはブランド服同様に「今の自分には不要」だからこそ、役目を終えて縁が切れていくのだと納得できるようになったからです。

(移ろうものが多いからこそ、変わらないもの、失ってはいけないもののありがたみが身にしみます。シェイクスピア・リージョナル・パークで→)

こうしてみると、モノの「片付け」は比較的上手くいっています。仕事の方も在宅業なので、引き受けるかどうかは自分次第で、これもコントロールができます。「お金はあるに越したことはない」という世の常識から自由になれば、「断る」という本来ないはずの選択肢も生まれてきます。引き受けることで得られる代償とそれに費やす時間、そのためにできなかった事を天秤にかけることで答えを出せるようになりました。問題は人付き合いでした。ヒトの「片付け」は聞くだに冷たい言葉ですが、これもまた必要なことだと痛感しています。(つづく)

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「マヨネーズ」
私の「養生訓」の受け売りの元はいつもお世話になっているmiminet あきこさんのブログ「オーラ日記」コチラの記事でした。その中で貝原益軒は、
『老年になったら用事をすくなくして 人との交わりもすくなくする』
と説いているそうです。
(白状すると、私も前回帰国時に養生訓を買ってきたのですが、あまりの長さと同じような教えの繰り返しに途中で頓挫してしまい、この一言までたどり着いていません)  

益軒の言う老年は70代を指しているようで、私はまだまだ先が長いですが、30代と40代の生き方が違うように、人はよりよい生き方を日々学んでいるのだと思います。ここは親友の言葉を借り、私も粛々と人生の片付けに入りたいと思います。

西蘭みこと 

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