「西蘭花通信」Vol.0505  生活編  〜ブルースプリング・レポートVol.11:凸校〜   2010年2月4日

親として長男・温(15歳)の「ニッポンお留学」を全力で支援することを決めるや、夫婦の頭のスイッチは完全に切り替わりました。この辺の変わり身の早さは長年働いてきたことの賜物かもしれません。つべこべ言っている間があったら、「まず動け!」です。想像を超えるほど先を行っていた温に一瞬にして追いつき、追い抜いてしまいました。

「行くからには受験をして4月入学。すぐに準備に取り掛かる」
「自分でおばあちゃんに電話して、本当に3年間も受け入れてくれるのかもう一度確認」
「水中ホッケーの17歳以下NZ代表選抜の監督に連絡して候補を降りる。キャンプも断る」
「2月のAC/DCのコンサートチケットをトレードミー(NZ版ヤフオク)で売る」
「月末に予約していた自動車の限定免許(リストリクティッド・ライセンス)の実地試験の延期か払い戻し」 (最終的に試験を受け受かって日本へ飛びました)
「水中ホッケーのギア(ユニフォームの一部)をチームメート経由で学校に返却」
「会計の先生に借りている本の返却」

親の承諾でほっとした表情の温に細かい指示を飛ばしました。ここから先、周囲ができるのは協力だけで、夢をつかむのは本人です。望みを叶えたいのなら、まず動くこと。あらゆる可能性を捻り出し、実現度の高そうなものから一つ一つ当たっていく―――地味ながらも着実に一歩でも前へ。成功に王道はありません。迅速、確実、周到に、準備を進めるしかありません。

夫は言われなくても持ち場を心得ていて、航空券の手配、香港の預金を取り崩しての送金手配、学校の先生方への紹介状依頼、日本に持参するノートパソコンの購入(私の仕事用、受かったら温用)に向けて、家族会議が終わるや準備に動き出しました。私の最優先課題は抱えている仕事を片付け、一刻も早く時間を作ることでした。そしてもちろん3人で一斉にしたことは、それぞれのパソコンに向かい、帰国子女受け入れ校を捜すことでした。

受け入れ校でも私立の入試はすでに終了していて、1月中旬のその時期では結果が出ているところもありました。東京の学校がほとんどで、夫婦ともに公立校育ちとしては高校教育に年間60万円だの80万円だのをかける金銭感覚も持ち合わせておらず(寮制だと100万円を越えるようです)、まったくご縁がありませんでした。

次に公立。義母の住む第一希望である千葉県の試験は2月5日でした。願書受付は1月30日か2月1日。願書提出まで正味2週間。相当な強行軍ですが日程的には「可能」です。私の両親が住む神奈川県、横浜市はさらに後でしたが義母の家から通えません。また私の両親が孫を自宅に3年間も受け入れる可能性はほぼゼロでした。(2003年のSARS蔓延の緊急事態の時でさえ受け入れを断られた家なので)

第一志望の千葉県で学区に照らしてさらに絞り込んでいくと2校が浮かび上がって来ました。私も土地勘を頼りに神奈川と横浜での受け入れ校をリストアップしてみましたが、やや意外ながらも千葉よりずっと少なく、受け入れ姿勢も消極的な感じがしました。それでも絞り込んでいくと叔父叔母夫婦が住む街に良さそうな1校を見つけました。しかし、夫婦ともに80代の叔父夫婦に相談できる話でもなく、可能性は千葉に限定されました。

自分も高校生活を送り、学区の事情に明るい夫の判断では「県立凸凹国際高校しかない」ということでした。立地よし、本人が強く希望する電車通学、学校の受け入れ態勢よし。なによりも試験が日本語の小論文と面接だけという点が大きなポイントでした。帰国子女受け入れ校といえども想定している受験生が海外駐在員の子弟や留学経験者のせいか、ほとんどの学校が日本語での5教科の入試を課し、海外で身に着けた言語と相殺に多少遅れた可能性のある学力に対して寛容な姿勢を示すという立場をとっているようでした。

温のように日本で暮らした経験がほとんどなく(SARSの時に4年生の1学期のみ日本の小学校を経験)、学力以前に日本語が問題になる生徒にとり、受験できる学校はさらに絞られてきます。そんな学校が義母宅から最寄りの場所にあり、日本語ができれば外国人や中国からの引揚生徒も受け入れ、国際交流に本腰を入れているというのですから、これはもう幸運と言うしかありませんでした。学校のウェブサイトを見ても、他の受け入れ校よりも積極的な姿勢がすぐに伝わってきました。

温も目を輝かせ、すぐに他校との違いを感じとったようでした。
「オージー(オーストラリア人)の子もいるよ。」
と知り合いでも見つけたように嬉しそうです。
「でも、一つ問題があるんだ。」
夫が唐突に言い出しました。

「えっ?」
と顔を上げる私たち。
「学ランじゃないんだよ。」
「な〜んだ。」
と力が抜ける私たち。
「いいよ、学ランじゃなくても。」
夢が実現する可能性と引き換えに、温は日本行きの三大目標の一つをいともあっさり引っ込めました。それが全く惜しくないほど、凸校は温の心を捕らえました。(つづく)

(帰国してからもついつい母子で制服の学生に目が行ってしまいました。記念写真中の修学旅行生。鎌倉にて→)

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「マヨネーズ」
SARSで日本に一時退避していたとき以来7年ぶりのダイアルアップに四苦八苦しながら、メールを書き、仕事をし、メルマガをUPしています。
「こんなに遅かったけ?」
と添付もないメールを読み込んでいるのを待ちながら、遠い目になってます。

2日は目が覚めたら一面の銀世界。あまりの美しさに写真をたくさん撮りましたが、家に送ったのは1枚だけ。今まで荷物をたくさん積んだトラック(=大容量)で高速走行(=ブロバン)していたのが、いきなり自転車になった感じですが、しばらくこれで行きます。メールのお返事等遅れておりますが、しばらくご容赦ください。

西蘭みこと 

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