「西蘭花通信」Vol.0533 生活編 〜執着を手放して:期待と比較〜 2011年4月18日 東日本大震災以降、無料で遠隔(レイキを送る)や「お祈りひーりんぐ」を 行っていらっしゃるセラピストのmiminetあきこさん。初めてレイキを受けとり、その素晴らしさに開眼した私。同時に、 「どうして日によって受けとり方が違うのだろう?」 という疑問も湧いてきました。 レイキストは自然界に普遍的に存在するエネルギーを自身を通じて対象とする人に送るそうで、電話回線のような役割のはず(その取り込み能力は格別としても)。普遍的なエネルギーが日々変化しているとも思えず、受けとり方の違いは私の受信状態の違いによるものと思われます。 遠隔も「お祈りひーりんぐ」も初日はあんなにはっきりと感じられたのに、翌日は受けとり方が弱くなり、計6回受けてみた遠隔に関して言えば、ほとんど感じられない日もありました。この違いはどこから来るのでしょうか?リラックス度?疲労度?雑念?あれこれ思い浮かべて最後に行き当たったのが、「期待」と「比較」でした。 2日目以降はごく自然に「今夜はどんなだろう?」と思っていたと思います。「初日みたいだったらなぁ」、「もっとスゴかったりして?」という「期待」と「比較」。素晴らしい体験をした直後ですから、こう思ってしまうのも当然なのですが、実はこの二つこそ「幸せ」を遠ざけてしまう曲者だとも思っています。 「期待」と「比較」の元は「執着」です。「こうあってほしい」「コレよりも良く」とか「アレには負けない」といった自分中心の発想です。私は「期待」がことごとくかなわないような家庭で育ちました。友だちや他の家庭との「比較」が一層自分を苦しめることを学び、かなり早い段階から生きる知恵として、この二つから自由になることを身に付けました。つまり、「執着せず、あるがままを受け入れる」ということです。 「時間どおりに来るはず(期待)の電車が遅れて、約束に遅れた」という期待外れだけならまだしも、「余裕だったはず(期待)の第一志望校に落ち、たいして勉強もしていなかった友だちが受かった(比較)」となると、がっかりさも倍増する可能性があります。けれど私はこの手のことにはけっこう平気で、「気にしないようにする」のではなく、本当に「気にならない」方です。 ヨガでもいかに執着を手放すかは大きなテーマです。 「不幸なことがあった人を極端に心配してはいけない。」 と私の先生は説きます。 「彼ら、彼女らはそれぞれの運命を背負って"不幸なこと"を体験しているのだから、部外者が一緒になって落ち込んだり体調を崩したりしてはいけない。それは"自分がなんとかできたかもしれない"という執着の表れであり、押し付けであり、奢りである。」 と。これには目が覚める思いでした。「愛」が「憎しみ」と紙一重になることもありうるように、「心配」も「期待」の裏返しである可能性があります。 「"期待"と"比較"は不幸の始まり」ぐらいなつもりでいても、さすがにすべてを取り払うことはできずにいます。スーパーで買い物をしていて、「あっちの店の方が安かった」と思えば「チッ」となり、初めてのレストランに行く時は「おいしいといいな〜」と思ってしまいます。それでも「もっと年季を積んだら、こうした感覚も徐々に超越していけるかもしれない」という希望もあります。 2日目以降の遠隔や「お祈りひーりんぐ」で初日ほどレイキを受けとることができなかったのは、「期待」と「比較」がエネルギーの流れを妨げていたのではないかと思います。少なくとも初めてのときほど、心を空にすることができなかったようです。だとしたら、しばらく時間を置き、初回の感覚が薄れたときに受けとってみたら、受信状態がよくなっているかもしれません。 初めてのレイキ体験を通じて久々に思い当たった、「期待」と「比較」。 「もっともっと執着心を手放していかなければ・・・・・」 と、意外な気づきの機会となりました。意識さえしていれば、歳を重ねるごとに上手に手放していけるようになる気がします。これも経験ゆえなのでしょうか。最近、 「歳をとるっていいな。」 と素直に思えることがめっきり増えましたが、今回もまたそんな気になりました。 そして、受けとるばかりでなく、自分もレイキを送れるようになりたいと思いました。やはり百聞は一見にしかずですね。長男・温(17歳)が日本の大学に行った後、体調を崩したようなときに、 「じゃ、ちょっと遠隔やろうか?」 と言えるような親になってみたいな、と思います。 ともあれ、貴重な機会を与えて下さったmiminetあきこさんに改めてお礼申し上げます。 =========================================================================== 「マヨネーズ」 「どうして電話をくれないのだろう?」 「なぜこんなことで怒るのだろう?」 というのは「電話が来るはず」「こんなことでは怒らないはず」という期待の裏返し。期待をしていなければ、「電話がない」「こんなことで怒った」という事実が残るのみ。 逆に期待をしていないと、 「こんなことで電話をくれた!」 「こんなことにも怒らないなんて!」 と感謝の気持ちがより強くなるように思います。感激屋さんと言われる人は、このタイプの幸せな人なのでは? (すっかり秋めいてきたNZ。トコロアにて→) 西蘭みこと ホームへ |