「西蘭花通信」Vol.0541   香港編   〜2011年帰郷:香港編〜             2011年8月8日

7月の冬休みを利用して、家族揃って約3週間、香港と日本へ里帰りをしてきました。4人揃っての一時帰国は2003年の謎の肺炎SARSのとき以来なので、実に8年ぶりでした。同年に愛猫ピッピがガンを患い、やっと闘病がひと段落したところでNZへの移住が決定。移住後はもう1匹の愛猫チャッチャの糖尿病が重くなり、家族旅行を断念していました。

2007年にピッピが、昨年のクリスマスにチャッチャが旅立ってしまい、今回の一家での里帰りとなりました。今や長男・温(17歳)が大学進学を機にそろそろ巣立つタイミング。4人での里帰りは「これが最後かもしれない」ことを、かなり意識した旅程となりました。

3年ぶりの香港は相変わらずの元気印でした。中国の成長と歴史的な超低金利の中、
「なにかしなくては!」
と熱に浮かされたように突き進んでいる印象もあり、良くも悪くも中国へ完全に統合されるまでの残り35年を生き急いでいる気がしました。でも「借り物の土地、借り物の時間」を生き抜くのは香港人の十八番。英国の植民地になって以降、女王陛下の土地を借り、中国返還までの限られた時間を1世紀半以上も生きてきたわけですから。

猫の額ほどの土地でも値千金の狭い狭い香港ですが、街を歩けば驚くほど昔ながらのものが残っていることに気づかされます。一家で住んでいた頃よりも前の、独身時代に住んでいた1980年代を彷彿とさせるものも数多く残っています。旧態依然のトラム(路面電車)などその典型です。効率を追求した近代化の中でも揺るぐことなく存続していけるのは、その圧倒的な経済的優位性ゆえでしょう。

香港では経済効率の悪いものは、どんなに伝統があっても、資金を投じたものでも、立派なものでも、情け容赦なく淘汰されていきます。「儲からないもの/儲けない人」は社会が存在意義を見出さず、見捨てられてしまうのです。ルールは極めて簡単。あの街で生き残りたかったら、事業なら投じた金額以上に儲けること、人なら給料以上に働くこと!(少なくとも投資家や雇用主にそう信じさせるパフォーマンスを上げること)

若かった私はそんな香港のドライでストレートなところに痺れ、長かった学生生活をパリで切り上げたとき、手にしていたのは香港行きの片道切符でした。自分の直感を頼りに、トランジットで数回立ち寄ったことがあるだけの街で、社会人としてのスタートを切ることに決めていたのです。

時には非情なほどドライでストレートな街は逆に言えば人の痛みのわかる、懐深い街でもありました。何かでつまずいても、それは「即死」を意味しません。本人がその気になればまたやり直せる機会に溢れた街でもあり、それを見守る温かい視線もあります。裸一貫を意味する「空手」(「何も持たない」の意)からの成功は、万人の尊敬を集めました。

仕事を見つけて働き始めたとき、25歳になっていました。初めての仕事、英語と広東語が飛び交う慣れない環境、新米でも常に結果を追求される厳しさ・・・・午前中に初めて学んだことを、午後にはさも前々から熟知していたようにとうとうと客に説くような綱渡り。多少ボロを出しても、ドジを踏んでも、とにかく前へ前へ。そこに誠意と善意が宿り、「儲けよう!」という究極の目標さえ見失っていなければ、受け入れられたものです。

独身時代と結婚してからの2回の滞在を合わせ、私は通算14年間を香港で暮らしました。その間に2回出産し、4回職を替え、7回引っ越し、住み込みのお手伝いさんを雇い、子どもと家事を託す、アジア圏らしい生活を9年間経験しました。今振り返っても実に「香港らしく」過したものです。それは心から望んでいたものでもあり、社会人としての私は香港に育てられ、鍛えられたのです。

「NZでなにかあったら、帰って来るのはここだな。」
肩が触れ合うような人ごみを歩きながら、ふと心に浮かんだのはそんな思いでした。私にとっての駆け込み寺は日本ではなく、香港です。「この街ならなんとかやっていける」という手応えは、移住後7年を経た帰郷での最大の感慨でした。そう思わせてくれる香港には今でも感謝の念が絶えません。

今回の滞在中、子どもたちのIDカード(身分証明書)を作りました。これは私にとり香港と自分を結びつける、より象徴的な出来事でした。永住権があるだけでなく香港生まれの子どもたちは香港の「国籍」を選択することもでき、祖父母を訪ねていく旅先の日本より、生まれ育った場所を身近に感じているのは間違いないようです。2人とも、
「いつかは香港で働いてみたい。」
とも言います。彼らも両親が歩んだ道をいつの日か歩むのでしょうか。

    (目を見張るほど緑化していた香港。中央分離帯もこの通り→)

この時期には珍しく雨天が続いた香港。驚くほど街のすみずみまで緑化された緑が鮮やかで、排気ガスと中国からのスモッグと一緒に、街が生み出すCO2もたくさん呼吸してきました。この清濁併せ呑むところもまた香港らしく、早くも次の訪問を楽しみに日本に旅立ちました。(つづく)

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「マヨネーズ」
次男・善(14歳)は香港の中国返還の年に生まれました。50年間が約束されている一国二制度もあと35年です。香港が完全に中国に回帰する瞬間をぜひこの目で見てみたいものです。そのときは善も50歳、私は85歳^^;

久しぶりの香港はどこも忙しなく行き交う人々で溢れ、いつもながらのハイテンション。そんな中で昔とまったく変わらないマンダリンホテルでの午後のお茶と、ペニンシュラホテルでの朝食は、静かで落ち着いた、懐かしくほっとするひと時でした。

西蘭みこと 

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