「西蘭花通信」Vol.0554   香港編 〜3つのオイスター〜                  2012年3月6日

古い女友だちのブログ記事をきっかけに、思考が80年代にワープしてしまったようなので、今回も続きを。(前回のメルマガはコチラからどうぞ)

楽しくて仕方なかった80年代の香港生活は丸3年続きました。24だった私は27になっていました。仲間もほとんどが同年輩で30を前に、楽しい「部活動」が終わりに近づいていることを、誰もが薄々感じ始めていました。

そんな時に起きた1989年6月の天安門事件は、私に生活の全てを見直すことを迫ってきました。地続きなだけでなく、民族的にも精神的にも香港人と切っても切れない中国で、人民解放軍という名の軍隊が丸腰の人民に銃口を向け、躊躇うことなく発砲し、人々は遺体や負傷者をリヤカーに積んで銃弾の中を右往左往していました。悪夢のような光景でした。

それを機に、広告代理店で中国業務を担当し、中国各地の出張に忙しかった私の仕事はピタリと止み、売掛金の回収すら難しくなっていました。幸い取引先は全て地方自治体で、
「必ず払うから心配しないでほしい。今は国から一切の海外送金が禁じられているので、金があっても送れないんだ。」
という電話が入っていました。

「また、香港の仕事をしたらいい。」
人のいい社長はそう言ってくれましたが、私の中で「何か」が終わってしまい、中国の展開に、慌てて海外移住に走る香港人の気持ちが手に取るようにわかりました。事態が収拾しても、再び中国を飛び回る気は微塵もありませんでした。

「仕事を辞めよう。」
考えあぐねた結論がそれでした。社長には本当にお世話になり、異業種であっても香港にいながら働き続ける不義理は、私にはできませんでした。
「しばらく香港の景気も戻らないだろうし、前々からの計画を前倒しにしよう。」
と、台湾留学時代から温めていた計画、シンガポールへの引っ越しを決めました。

お世話になった感謝を込めて、有終の美とまではいかなくても、せめて飛ぶ鳥跡を濁さずのつもりで、退社する12月末まで身を粉にして働きました。年末商戦や年賀広告など通常業務も忙しい上に、さらに引継ぎ、挨拶回りと、目が回るような忙しさでした。

そんなある日の夕方、どうしても顔を出さなければいけないクライアントのパーティーがあり、残業の後、同僚でもあった古い女友だちと2人、当時の香港では最高級ホテルのひとつだったマンダリン・ホテルに向かいました。ワイングラスを受け取ったものの、食べるものはあらかたなくなっており、小さなオイスターが氷の上に3つだけ残っていました。

あまりの空腹+ワインに、「何か食べておいた方がいいな」という判断だけで、今ほど衛生観念がなかった当時の香港では滅多に手を出さなかった生ものに手を伸ばしました。
「もうひとつどう?私、そんなにオイスター得意じゃないから。」
と女友だちに言われ、ふたつ目も私のお腹に納まりました。

それから1週間で、私はA型肝炎を発症してしまいました。白目の部分や尿が見たこともないほど鮮やかなレモン色になりました。病院へ駆け込むと、医者に開口一番、
「ここ数日で、生ものを食べましたか?」
と聞かれました。「ふたつだけだし、マンダリンだし・・・・」という私の読みは、見事に外れてしまったわけです。何よりも疲れ過ぎで免疫力が落ちていたのでしょう。ひとつだけ食べた女友だちは、ピンピンしたままでした。

生まれて初めての入院。肝炎には薬がなく、安静にして機能の回復を待つしかありませんでした。病院の公衆電話は国際電話も掛けられたので、一応実家にも電話を入れてみました。こちらから連絡しなければ、数日の入院など両親が気付くはずもなかったのですが、現役の看護婦の母なら、なにかアドバイスもあるかもしれないと思ったのです。

「A型なら大丈夫よ。人にもうつらないし。薬がないからとにかく休むこと。シジミがいいんだけど、そっちにシジミってあるの?退院しても家事はしないことね、とにかく疲れたらダメよ。」
電話の向こうから、母の冷静な声が聞こえてきました。内心「家事どころか仕事があるのに」と思いながら、
「何もしないわけにもいかないのよね。」
と言うと、
「お友だちに頼めないの?ご飯を作ってもらったり、洗濯してもらったり。」
と言われました。

「まぁ、死ぬような病気じゃないから大丈夫よ。」
長電話を嫌う母らしく、話を切り上げようとしたとき、ふと、
「もし私が海外で死んだら、お母さんたち来てくれるの?」
という、自分でも予想外の言葉が口をつきました。

「行かないわ。知ってるでしょ?お母さんたちは外国には行かないわ。言葉もわからないし。誰かお友だちに頼みなさい。お友だちは大事よ。」
そこで会話が終わりました。母らしい正直な返答でした。 かけがえのない仲間たちと別れて、ひとり新天地に渡り再出発をしようとしていた私には、
「そうね。」
と言う以外、返す言葉がありませんでした。

「私には看取ってくれる人がいない・・・・」
27歳にしてそう気付き、28で夫に出会い、29で結婚しました。
         (生きていく術を教えてくれた香港。いつまでも心の故郷です→)

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「マヨネーズ」
3つのオイスターの件は、女友だちとの一生の笑い話です。彼女には退院後の看病でもお世話になりました。一時はどうなるんだろう、と心配になったシンガポール行きも、体力の回復とともにあっという間に実現し、3月の終わりには新しい仕事を始めていました。90年代を迎え、運命の潮目が変わったことを改めて自覚しました。

西蘭みこと 

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