「西蘭花通信」Vol.0568   NZ・生活編 〜未来の一部に〜              2012年5月8日

小雨が降りしきる中、私たちは葬儀場へ向かっていました。会場となった2階建てのホールは案の定満席で、多くの人が立ったまま参列しました。5月3日、夫のラグビーレフリー人生の恩人ともいえるコーチ、トレバーがガンのため逝去しました。76歳でした。

夫は5年前に突然、
「ラグビーのレフリーになる!」
と言い出し、以来「三度の飯よりレフリー」という状態で、毎年3〜11月までのラグビー・シーズンを中心に生活が回り出し、仕事よりも家族よりもレフリー稼業に血道を上げてきました。レフリーは選手と違い、代わりがいない(テレビ放映されるような試合は別として)、たった1人で試合の責任を負うという意味で、予想以上に重い責務でした。

NZでは選手同様にレフリーの水準が非常に高い上、ちびっ子の試合から他国でプロとして通用する選手がゴロゴロいるアマチュア最高峰の試合まで、すべてを無給のボランティア・レフリーが草の根で支えています。水準の高い試合を統率するということは、レフリーの心身へのプレッシャーも並大抵ではありません。

さらにラグビーというスポーツは他のスポーツと比べられないほどルールが複雑で、スクラム周りなど反則か否かの判断が個々のレフリーに委ねられるような状況も多々あります。両サイドや観客を黙らせ、80分の試合を仕切り抜くためには、強い克己心と高度なレフリングが必須なのです。

オールブラックスを頂点とするこの国のラグビー・ヒエラルキーの小さな一角を担いつつ、夫はラグビー王国に深く深く足を踏み入れています。
「もし今、日本や香港にいたら・・・・」
と、テレビで海外の試合を観ては、レフリーの水準に苦笑いしています。
「始めたのがあと10年早ければ・・・・」
というのも、つい口をつく言葉です。本当に10年早かったら何かが変わっていたのかは知る由もありませんが、本人にはそんな手応えがあるのでしょう。

夫にとり、トレバーは3人目のコーチでした。2年目で初めて得た1人目のコーチは顔を合わすや、
「キミはアジア人だから上には行けない。」
と断言する人でした。夫は彼の下で1シーズンを過し、3年目の別のコーチは多忙過ぎて個人的なコーチングを続けられなくなり、4年目にトレバーがコーチとなり2年連続で担当してくれました。トレバーは昨シーズンでレフリー暦50周年を機に引退したため、夫は彼の「最後の教え子」になりました。

トレバーは世の中が世界的な大恐慌で苦しんでいた1935年に生まれ、13歳で郵便局のメッセンジャーボーイとしてアルバイトを始め、15歳で正式に採用されました。以来、郵政一筋で全国を転々としながら出世街道を邁進し、65歳で引退したときはオークランドのトップでした。ラグビーの方は23歳まで選手として活躍したもののケガで続けられなくなり、レフリーに転身するや早々に頭角を現しました。

NZでは今も昔も、選手もレフリーも、スタートはみな草ラグビーです。トレバーも同様で、転勤族として全国各地を転々としながら、行く先々で週末のレフリー稼業に勤しんで腕を磨き、NZを代表するレフリーの1人となりました。NZ代表として海外で笛を吹く機会も増え、日本も含めたくさんの国を訪問したそうです。60歳で現役レフリーを引退した後は、レフリーのセレクター兼コーチとなり、国内外でラグビーレフリーの育成に力を尽くしました。夫は彼の50年のキャリアの最後にギリギリで滑り込むことができたのです。

試合の1時間前にはグラウンドへ行け。
時間をかけてしっかりウォーミングアップをしろ。
グラウンドに穴が開いていたり、石が落ちていないか見て回れ。
穴があったらクラブの担当者に埋めさせろ。
選手がつまずいても、自分が転んでも危ない。
試合の前には必ず目標を設定して、それに従え。
トライは選手だけでなく、観客にとってもセレブレーション(祝福)だ。
身振りを大きくして誰からも見えるようにして、大きく笛を吹くんだ・・・・・

ルールに関しては言わずもがな、トレバーは50年かけて培った試合をよりよくするための経験の全てを、惜しみなく分かち合ってくれました。彼がセレブレーションと呼ぶ、トライの時の芝居がかった笛の吹き方を夫が見せてくれたときは、2人で大笑いでした。しかし、これは笑い話ではなく真面目な話で、ラグビーを愛し、あらゆる面から深く長くかかわったトレバーならではのリスペクトの方法なのです。

トレバーは時間が許す限り、炎天下でも大雨でも夫の試合を見にきてくれ、常に片手に閻魔帳を持って試合中熱心にメモを取っていました。チラリと見せてもらった閻魔帳にはスコアやコメントだけでなく、試合の流れや夫の見過ごした反則の数や内容など、ありとあらゆることが細かい字でびっしりと書き込まれていました。試合後にはそれを基に、さらに細かいレポートが夫とレフリー協会宛にメールで送られました。

時に厳しく時に優しく、常に愛とユーモアをもって、スタートの遅いアジア人の夫をどこまでもどこまでも懐深く導いてくれたトレバー。全てがラグビーというスポーツへの惜しみない愛が、行動になって現れたのだと思います。

「トレバーは私たちの過去の一部になったのではなない。彼と友情を育んだ人や薫陶を受けた後輩が彼の目指していたものを実現していくことで、私たちの未来の一部にもなるんだ。」
葬儀の中で語られた彼の親友の言葉は多くの人の胸を打ったことでしょう。

偉大なるトレバーの冥福を心よりお祈りします。

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「マヨネーズ」
トレバーはラグビーだけでなく、競馬、ゴルフ、マラソン、旅、チャリティーと幅広いものにかかわり、そのほとんどで本業同様、責任のある地位につき、職務を全うした人でもありました。偉大な旅人の最期の旅路も安らかなものでありますように。

西蘭みこと 

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