「西蘭花通信」Vol.0649  生活編 〜三ちゃんと過ごした時代〜          2013年12月18日

テレビでNHKニュースをやっているのを聞き流しながら、私はキッチンにいました。日本で初めて、外国人シェフによる本格的な和食コンテストが行われたというのを耳にし、なんとなく呼ばれるようにテレビの前に行ってみると、スリランカ人シェフだの、ベルギー人シェフが創る、それはそれは見事で繊細な品々が映し出されていました。

優勝者はそれまで映っていなかった、シンガポール人の男性。アジア人、特に中華系は和食が大好きで造詣が深い人も多いので、
「やっぱりアジア人なのか〜」
と思ってみていると、画面いっぱいに映し出され、中国語で感想を語っている優勝者に見覚えがありました。
「三ちゃん!」
そうです!夫と知り合い、3年間暮らしたシンガポールでお世話になっていた板さんでした。

三ちゃんの愛称で呼ばれていた三太郎・リーは当時、「寿司懐石 野川」にいました。野川はまだ本格的な和食店がなかった80、90年代のシンガポールで日本の高級店に全く引けを取らない寿司や懐石を出す店として、シンガポールのみならず東南アジア一円に金字塔を打ち立てた伝説的な店です。三ちゃんはオーナーの野川さんの右腕として、日本人シェフ顔負けの料理と淀みない日本語を操り、なくてはならない存在でした。

当時の私は30歳になるかならないかで、4つ年下の夫は確実に20代。敷居の高い野川に行くと、ほとんどいつも最年少でした。周りはグルっと接待中の年配の駐在員で、自分の財布で来ているのは私たちぐらいなことがよくありました。若輩者にはかなりの背伸びでしたが、ため息が出るほど贅を尽くした品々、一つ上の世界を見たい好奇心もあって、ときどき出掛けていきました。

野川さんはそんな私たちを気遣ってくれ、お会計はいつも2人で500ドル(シンガポールドルとNZドルは同じようなレートで、当時の為替で4万円ほど)。それでも頼んでもいないその日のお勧め料理が出てきたり、
「これ食べてご覧」
「これはめったに入らないネタなんだ」
と、閉店間際になって人も疎らになってくると、猫に小判同然の私たち相手に大人の食を教えてくれました。500ドルの授業料でも出血大サービスだったのです。

そんな畏まった雰囲気の中、三ちゃんは比較的年齢が近かった上、お互いシンガポールに来る前は香港に住んでいたこともあり、彼がカウンターに出てくるたびに話をしていました。当時から彼は寿司を握るよりも厨房を仕切る大事な役を任され、よく中にいました。経木のお品書きは毎日三ちゃんが書いていて、見事な達筆の毛筆でした。知らないことばかりの私たちは、シンガポール人の三ちゃんにもいろいろ教えてもらいました。

なぜ彼の和名が三太郎なのかというと、それには長い長い理由があります。中国・華南の出身でまだ十代だった三ちゃんは、ある夜、友人数人と暗い海に出ました。香港に逃げるためです。服の下に、膨らませたコンドームをたくさん挟んで浮きにしました。方角も分からないまま何時間も泳ぎ、とうとう陸地を発見します。けれど、そこが香港かどうかはわかりません。もしもまだ中国国内で逃亡が発覚すれば、極刑に処される時代です。慎重を期して夜明けを待ちました。

明るくなると、島の家々の屋根に見慣れないものが載っているのが見えます。それが何かは知らなかったものの中国にはないものだったので、
「ここは香港だ!」
と分かったそうです。それはテレビのアンテナでした。びしょ濡れで上陸するとすぐに島民に見つかり、警察がやってきました。そこは香港内の離島の一つで、島は中国からの逃亡者には慣れっこだったらしく簡単に入境できたそうです。今から約40年前の70年代の話です。

中国から逃げてきた人に与えられる仕事は2種類。自動車整備工見習いか調理師見習い。
「食いっぱぐれないように。」
と三ちゃんは調理師を選び、見たことも食べたこともなかった和食の店で働くことになりました。その店で三人目の中国人だったので、三太郎と命名されます。夢中で働く三ちゃんは店に見込まれ、日本人から直々和食の奥義を開陳されていきました。

そんな秘話を知っているのは、ある雑誌の仕事で野川夫妻と三ちゃんを正式に取材したことがあったからです。命がけだった香港行き、生きるための食、厳しくも奥深い和食の世界――聞けば聞くほど、三ちゃんの何事にも屈しない力強さ、真摯で明るく素直な姿勢、そして何よりも「生きること」と「食べること」が、こんなにも密接かつ高度に結びついていることに感動を覚えました。身体を張って自由を求めた人が創りだす芸術のように美しい懐石という存在に、目が眩みそうでした。

そんな三ちゃんが、世界中の精鋭の中から栄えある外国人和食シェフの初代1位に輝いたことを、心から誇りに思います。いつかシンガポールを再訪する機会があったら、ぜひ「寿司割烹 三太郎」を訪ねて、世界一の味を堪能してみたいものです。

三ちゃん、おめでとう!

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「マヨネーズ」

夫はシンガポール勤務の後、香港転勤となり、私は古巣に戻りました。ほぼ同時期に三ちゃんは出資者とともに香港のリッツカールトンに本格和食の店を出し、何も知らずに客として訪れた私たちはそこでばったり再会しました。長男・温(19歳)を出産したときには入院中に夜こっそり抜け出し、三ちゃんにお寿司を握ってもらい、病院へトンボ帰りしたこともありました。

夫婦で当時の話をしていると、夫がふと、
「いい時代だったね。」
と言いました。日本のバブルが崩壊した後も、アジアは飛ぶ鳥を落とす勢いでした。若かった私たちは飛ぶ鳥に混じって、あの時代を駆け抜けていったのです。

西蘭みこと 

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