「西蘭花通信」Vol.0696 NZ・生活編 〜正しい道〜                     2014年6月29日

ランニング中にリタイアメント・ビレッジと呼ばれる老人ホームの前を通りかかった時、制服を着た若いポリネシアン系の介護士の女性と、小さな車輪の付いた歩行車を押した入居者が歩道に立っていました。散歩に出るところなのか戻って来たところなのか。よく通る道ですが、介護士が付き添って入居者が散歩している姿を初めて見ました。
「すみません、メインロードはどちらですか?」
不意に高齢の老婦人に声をかけられ、私は足を止めました。周囲は静かな住宅街でメインロードと呼べるような大きな道はありません。

「レミュエラ・ロードのことですか?」
と聞き返すと、
「メインロードはこっちですよ。さぁ、行きましょう。」
と若い介護士が施設の建物の方を指差し、帰ろうとします。
「いい加減なことを言わないで。店が何軒か並んでいるところがあるでしょう?あそこへ行きたいのよ。」
入居者は静かに、しかし毅然と言い返し、
「店のあるメインロードは向こうじゃありませんか?」
と、正しい方角を指しながら再び私に尋ねてきました。

淡いグリーンのセーターの上に同色のベストを羽織り、胸元には品のいい珊瑚のネックレスが連なっています。春先の庭のように華やかで明るい配色は、元は金髪だったのであろう美しい白髪によく映えました。入居者の目は真剣で、通りすがりの私に助けを求めるようでした。彼女と介護士双方の事情を察した私には、
「メインロードはこの道です。」
と、3人が立つ、店まで目と鼻の先の道を指差すのが精一杯でした。

介護士はやや当惑しつつ、こめかみに当てた人差し指をクルクルと揺らして見せました。入居者が精神に障害をきたしているというサインなのでしょう。小柄な入居者は私に向き合っていて、後に立っている大柄な介護士の姿は目に入っていません。
「さぁ、メインロードに行きましょう。」
介護士は再び入居者を施設の方に促しました。私は軽く一礼をして2人を後に走り始めました。
「こっちに行ったら戻ってしまうだけじゃない。適当なことを言わないで。」
入居者の抗議の声が背後から聞こえ、胸がいっぱいになりました。

「店が何軒か並んでいるところ」は目と鼻の先でした。ほんの数百メートルの距離で、周辺は歩行車でも歩けるようにバリアフリーになっているので、入居者でも十分に歩けそうな距離でした。察していた方角に首を伸ばせば、小柄な彼女でも店のひとつぐらい見えるほどの近さでした。しかし、介護士には行く意志は全くなさそうでした。

NZの民間のリタイアメント・ビレッジは高齢者が単身や夫婦で暮らすマンションや戸建てのコテージと、要介護になった人が入るホスピタルと呼ばれる高層や大きな建物からなっているところが多いです。マンションやコテージで暮らす人たちは自分で自由に外出し、運転もすれば自室で調理もし、ベランダでガーデニングを楽しんだりしつつ、緊急事態が起きない限り、ビレッジに入る前と変らない生活を送っています。

ホスピタルに入ると食事が供され、他の入居者との共同生活になります。寝たきりの人たちもいます。今どきの民間ビレッジはどこも同じような造りのようですが、やや大きな施設になるとコテージとホスピタルの中間のような看護師や介護士が24時間常駐しながら、入居者は個室で過ごしプライバシーが保てるようになった場所もあるそうです。私が声をかけられたビレッジには、マンション、ビレッジとホスピタルしかないようでした。

介護士がこめかみに当てた指を揺らしていたところをみると、入居者は認知症でホスピタルに入っているのでしょう。目と鼻の先の場所でさえ、彼女にとってはただの散歩ではなく、お出かけだったのかもしれません。それさえ騙し騙し止められてしまう無念さが伝わってきて、彼女の主張が正しかったのと、きちんとした身なりが物悲しさを誘いました。

私には介護の経験はなく、この国には自宅で親を介護するという習慣はないので、介護の現状も知りません。けれど、あの老婦人の「店が何軒か並んでいるところへ行きたい」という希望は、叶えてはいけないものなのでしょうか?歩行車でゆっくり進んでも10分もしないで往復できる距離、近所の人のクルマしか通らない住宅街。外出が許されない時間帯なのか、彼女は外出が認められていないのか事情はわかりませんが、
「こんなに小さな希望も叶わないのか。」
と思うと、長く後ろ髪を引かれる思いでした。

これは5年ほど前の話でした。先日、70代のボランティア仲間と話しているときに、
「90代の母をいよいよホスピタルに入れるかもしれない。」
という話を聞いた時に、ふと思い出しました。仲間の母親がいる施設は大きいため、今は個室にいるそうですが、ベッドから落ちてしまったり、軽い心臓発作を起こしたりということが続き、ホスピタル入りを強く勧められているそうです。認知症が進んでいても、
「ホスピタルには入りたくない。」
という本人の意志は固く、娘は悩んでいます。

「認知症って意識が斑になるの。青空のように澄み渡っている時もあれば、何もわからないほど曇ってしまう時もあって、子どもの頃の歌をずっと口ずさんでいる日もあるわ。毎週会いに行くけど体力的にも精神的にも1時間が限界。クルマでカフェに連れて行って、おしゃべりしながらコーヒーを飲んで送り届けるのが精一杯。付き添う私も1時間が限界なのよ。身体は健康なのに、認知症って切ないわ。」
母親は近くホスピタルに入ります。

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「マヨネーズ」

ここで生涯を終える身であり、日本には老いた親がいる身。どの話も他人事とは思えません。皆の話に寄り添いつつ、自分の人生を見つめていきたいと思います。


(リタイアメント・ビレッジからすぐ近くでも、あの入居者はこんな光景を目にするのでしょうか?→)

西蘭みこと 

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