「西蘭花通信」Vol.0712 スピリチュアル編 〜50代の宿題8:小夏〜       2015年5月8日

窓越しに、桃の木の根元で野良猫の小夏が寝ているのが見えました。2年半前の初夏にふらりと我が家の庭に現れ、以来、姿を見せるたびにご飯をあげて面倒を見てきました。出会った頃は成猫とはいえない大きさで、生後半年ぐらいに見えました。夏の初めにやってきたので小夏と名づけました。

小夏は礼儀正しく、分をわきまえた猫でした。人というものを心得ていてすぐ近くまで来るものの、決して飼い猫のように脚に擦り寄ってきたりはしません。手を伸ばして触ろうとでもすれば、後ろにすっ飛び安全な距離を確保します。こちらの目をじっと見ながら次の一手を読みつつも、ご飯をもらおうとその場を離れませんでした。

寝姿を見ながら、なぜか目頭が熱くなってきました。いつも軽い緊張と警戒を解かない小夏があんなにぐっすり寝ているところをみると、よほど疲れているのか、安心しているのか。2年半経っても距離は全く縮まらず、姿を認めてご飯を持っていくと、か細い声でニャーニャー言いつつ小走りでやって来ては、足元でピタリと止まります。顔を見合すと、まるで決まり事のように般若の形相で、「シャー」っと短く威嚇の声を出します。

それは通常の「ニャー」では言い表せない、「ありがとう」といった挨拶らしく、食事を持って行ったときだけにします。
「こんなに長い間毎日のようにご飯をあげてるんだから、もうそれやめたら?」
と、苦笑しながら心の中で諭してみるものの、変わる気配はありません。礼儀正しいけれど、無愛想。いつまで経っても懐かないのに毎日のようにやって来て、食べ終わるやまるで帰る所があるかのようにさっさと姿を消します。 

そんな小夏の寝姿に、ふと50年近く前の自分が重なりました。私には家があり両親もいました。けれど、両親の前ではいつも軽い緊張と警戒を解かず、特に母の動きや言葉に注意しつつ、次の一手をうかがうような子どもでした。私のたった一言やちょっとした態度で母の気分がどこでどう変わるのか、怒りが沸点に達したときにどう飛沫が降りかかるのか、私は知らず知らずのうちに先を読むようになっていました。

空気が重苦しくなり、雲行きが怪しくなったのを察してその場を離れようとすると、
「待ちなさい。そこに座りなさい。」
と言って正座させられたり、
「人の話を最後まで聞きなさい。」
と止められたり、いずれにしても子どもにとっては長い長い小言が始まるのでした。母が腹を立てていたのは私の一言や態度そのものよりも、いつまでも懐かない、不可解な娘の存在そのものだったのだと思います。

「素直じゃない」
「お客さんじゃないのよ」
「自分を何だと思っているの?」
「変わってる」
「あなたはいつもそう」
「私たちは家族なのよ」
「親を何だと思ってるの?」
小言は母の不満の吐露であり、私がしでかした些細な事は単なる引き金でしかなく、その後延々と続く言葉の大半を占めたのは、私の人格への攻撃でした。些細な事への注意は一瞬で終わってしまっても、人格を責める限り小言はいくらでも続けることができました。

注意が的を得ていれば私は謝りました。自分の非はすぐに認める礼儀は兼ね備えていたつもりです。意固地になることは母の小言を長引かせるだけでした。しかし、それ以降の「変わってる」「私たちは家族」といった応えようのない言葉には黙っていました。母はその沈黙にますます苛立ち、
「いったい何を考えているの?」
と声を荒げ、しまいには
「何か言いなさい!」
と言い出しました。

「あなたはいつもそう」と言われ、
「いつもっていつのこと?こんなこと注意されたのは今日が初めて。」
などとまともに反論した日には、足が痺れて立てなくなるまで話が続き、「あの子のせいで夕飯を作るのが遅くなり、こんなに簡単な料理になってしまった」と、仕事から帰った父の着替えを手伝いながら、私に聞こえるように母が言うのが常でした。それに対する父の答えもいつも同じで、「困った奴だ」とか「またなのか」と言ったものでした。父が私を呼び、何があったのか正すことはありませんでした。

こんなことがしょっちゅう繰り返されていたら、どんなに小さな子どもでも学びます。緊張や警戒が解けない以上懐くはずもなく、不貞腐れて見えても仕方なかったことでしょう。それを「可愛くない」「可愛くない」と耳にタコができるほど責められ、私はいつも浮かない顔をしており、鏡を見るのも写真を撮られるのも心の底から嫌うようになりました。

小夏はカメラを向けると、必ずカメラ目線です。無愛想ですが、写真を撮られることは嫌ではないようです。距離感は縮まらなくても、2年半の歳月を経て信頼が芽生えました。しかし、所詮は野良猫。緊張と警戒を解くことはしません。そんな小夏が賑やかな鳥の声にも目を覚ますことなく深い眠りにつく姿は、ほんのつかの間の安心感の表れなのでしょう。子どもの頃、眠ることが何よりも好きだったのをふと思い出しました。

(不定期でつづく)


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「マヨネーズ」

9ヶ月ぶりの〜50代の宿題〜のつづきです。このシリーズはある一定のテンションになると一気に書けるのですが、その波が行ってしまうとなかなか筆が進みません。連載のタイミングが自分のバイオリズムを示しているようで興味深いです。

写真を撮られることへの拒否感は今でも続いています。スマホで自撮りだなんて、私には考えられないことで、そもそもスマホもガラケーも持っていない石器時代の生活なんでした(笑)

西蘭みこと 

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