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Vol.0110 「生活編」 〜史上最強のウソ〜

91年4月。東京のとある区役所で婚姻届を出した私たちは車に乗り込み、とりあえず走り出しました。「結婚したんだから、次は新婚旅行だよなぁ」と夫。「新婚旅行と言えば、箱根か熱海か」と私。「熱海は団体旅行っぽいから箱根にしない?箱根と言えば強羅よね!」という私の一言で、西蘭家の新婚旅行第一弾が決定。私たちは午後の陽を追いかけるように東名高速を一路南下し始めました。

別に「箱根と言えば強羅」っていうことはまったくないのですが、小さい時からよく行っていたのでなんとなくなじみがあるというか、裏を返せばそれ以外のところをよく知らないという事情もあり、「ごうら?それどこ?」という、東京生まれ千葉育ちの新郎を「まあまあ」と言いながら引っ張って行きました。やたらに社員寮ばかりあるところですが、箱根登山鉄道の駅もあるし、硫黄の匂いもきつめだし、こぢんまりしているし、何せ名前がカッコいいし・・・で、とにかく強羅へ。

途中、厚木インターで軽く休憩し、今ひとつ調子の悪い車の話などしながら、まったくいつもの調子でした。入籍したとは言え、何の実感もありません。そんな気軽な雰囲気の中、「あのさぁ、私、子供ができたみたいなの」と言ってみると、ハンドルを握った夫の横顔が凍りつき、真正面を向いたまま絶句してしまいました。ちょっと間があって、「それって確か?」と、小さい声で聞いてきました。でも依然、前を向いたまま、少しも顔を動かさずにフロントガラスの向こうを凝視しています。

「うん、多分ね」と、淡々と言う私。「でも、ピル飲んでたんじゃないの?」「う〜ん、でもほら、私よく忘れちゃったりしてたし・・・・」。この会話を最後に、夫はとうとう口をつぐんでしまいました。じっと前を見据え、まるで見えない何かを見ようとしているかのようです。声をかけても返事はなく、かろうじて地図を見ている私が標識や道路の名前を言うのに反応する程度。けっきょく迷うことなく強羅に乗りつけた私たちは適当にその辺の旅館に宿をとり、よくしゃべる仲居さんに「奥様、奥様」と連発されながら部屋に案内されました。何の変哲もない小さな部屋。ろくな荷物もない普段着の私たちは間違っても数時間前に入籍したばかりの新婚には見えなかったことでしょう。

浴衣を持ってさっそくお風呂へ。私たちはほぼ無言のまま分かれました。久々の温泉。当時暮らしていたシンガポールでは望みようもないものだけに、私はゆっくりと手足を伸ばして硫黄の香りを楽しみながらお湯につかっていました。「ケッコンしたのか〜」「それがどうかした?」と自問自答してしまうくらい何も変わらず、「シアワセになろう」とか、「今日のこの日を一生忘れない」と言った意気込みはまったくなく、とりあえず"けじめ"を探してみたものの、どうもそういうものは見当たりませんでした。

「まっ、籍が入ったからと言って何がどうなるわけでもなし。ユルユル始めてみるか」など、つらつら思いながら部屋に戻ると丹前を着た夫がもう戻っていました。何を言ってもほぼ反応はなく、気まずい訳ではないものの「どうしたらいいかなぁ」と思っていると、折りよく「夕食のご用意ができましたぁ〜」と、さっきの仲居さんが入ってきました。「あぁ、旅館って便利♪」。彼女はテキパキと用意をしながらも、おビールがどうの、お櫃をどこに置くの、お茶がどうの、お布団がどうの、明日の花見はどこがいいの・・とひっきりなしに話してくれ、私たちの間ですっぽり抜けた会話の3倍分くらいを吹き込んでくれました。

しかし、彼女が引っ込んでしまうとさっき以上の静寂が戻ってきました。日本でしか見ない小さな小さなビール瓶を取り、夫のグラスに注ぎ自分にも注ぎました。力のこもらない乾杯のあと、夫は一気に飲み干しグラスを置きました。もう一杯注ごうとすると、突然、「オレもおやじか〜」と、大きなため息とともに言いました。本当に観念したらしい心の底からの一言です。高速で聞かされて以来、この時間までかれこれ4時間近く、その一点だけを考え続けてきたのでしょう。その結果が、この一言にぎゅっと凝縮されていました。

「冗談よ」。私は事もなげにあっさりと言いました。「今日は何の日?」と言う私の一言に、夫は「あっ!」と絶句。「いいかげんで冗談みたいな結婚だから、いざとなったらジョークで済ませられるように・・・」と、私たちは4月1日に入籍したのです。煮詰まるほどに考えあぐねる夫を気の毒に思いながらも私に罪の意識がなかったのはこのためです。それにしても、ここまで見事に引っかかってくれるとは!しかし、彼が結婚初日、しかも入籍後数時間で下した"おやじへの決心"は法外な喜びでした。「いいヤツとケッコンしたなぁ〜」 温かな気持ちがボートを漕いでお膳の向こうの彼の方に向かって行きました。

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「マヨネーズ」 みこと29歳。タカ25歳。12年前の4月、お互い誕生日を迎えたばかりで結婚しました。夫は大学を出て丸3年、私からするとまだまだ学生っぽい感じのする弟みたいな人でした。でも、私がそれまでの人生で一番欲しかったかったものの一つが弟だったので、時期的には遅すぎたし実弟でもないけれど、私はこの"似非姉弟"の錯覚がとても気に入っていました。その後、"弟"はどんどん社会経験を積み27歳で本当の父親になり、以来、私に"弟"はいなくなり、夫だけが残りました。

毎年、結婚記念日は夫婦で食事に出るのですが、今年は恐ろしい肺炎SARSの蔓延でそれどころではなく、家で家族揃ってトンカツでした。香港は医療用マスクで顔の半分以上を覆った人が半数以上になり、先週まで見ることがなかった西洋人のマスク姿も珍しくなくなり、悪夢のような光景が日に日にありふれた風景となっていってます。

西蘭みこと