>"
  


大変ご無沙汰してました。新型肺炎(SARS)の蔓延を逃れ日本に来てから、かれこれ一ヶ月。その間、伊勢神宮詣でや山陰旅行を経て、今は私と子供のみ千葉の夫の実家に身を寄せています。香港では今月5日より小学校が約40日ぶりに再開しますが、出てきた時より感染が下火になっていないことから、大事をとってしばらく日本に滞在することにします。子供はすでに地元の小学校に通い始め、それはそれで大変エンジョイしており、思いがけない"日本お留学"となりました。私もだいぶ落ち着いてきたので、メルマガを再開します。不定期配信になるかもしれませんが、ニュージーランドへの想いはどこで暮らしていても変わるものではなく、今後もつれづれなるままに書きつづっていこうと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

西蘭みこと

Vol.0113 「生活編」 〜3月26日〜

3月26日午後6時。オフィスでその日最後のレポートを出し、いつものように「やった〜!終わった〜」と、背伸びを兼ねて両腕を高く上げると、チームの同僚が「お疲れ様でした。終わりましたね。でも三人で出すレポートはこれが最後だったりして・・・」と、言いました。ドキリとして伸ばした腕を慌てて引っ込め彼女の顔を見ると、いつも通りニコニコしています。真顔でなかったのはせめてもの救いでした。

その日は重く、苦しい1日でした。企業決算真っ盛りで忙しかったこともありますが、午後になって、「同じビルの31階で新型肺炎(SARS)感染者が出た」という噂が飛び出し、社員一同、顔も引きつる思いでした。その頃はSARSの蔓延が一段と深刻さを増し、マンションでの集団感染を経て、問題が従来の医療従事者やお年寄りのみならず、空調で回り続ける同じ空気を吸い合う、私たちのようなオフィス勤務者にとっても差し迫ったものであるということを、否応なしに自覚せざるを得なくなっていました。

それでも私たち三人は出さなくてはならないレポートを淡々と片付けていました。いつも通り、時間と正確さに追われながら綿密なチェックに余念がなく、まるで噂をシャットアウトするように黙々とパソコンに向かって仕事を続けていました。しかし、私の心の中では「私が感染したらどうなるんだろう?」という上下する回転木馬が延々と回り続けていました。多分、それぞれ母親でもある他の二人も同じ思いだったことでしょう。

すぐに人事部がビル管理会社から送られてきた噂を否定するメールを転送してきましたが、それが嘘であっても本当であっても、その午後に私たちは一つの可能性を明白に認識してしまったのです。それは「自分が病気を持ち帰ってしまうかもしれない」という、最悪の可能性でした。その時点で息子の学校は閉鎖直前でしたが(実際29日から閉鎖)、登校してくる生徒は3分の1にまで減ってしまっており、子供よりも自分の感染の可能性の方が高いという事態になっていたのです。

レポートの送信ボタンを押し、朝7時から始まった私たちの長い1日が終わり、同僚の言葉通り、その日が私たち三人の本当に最後の日となってしまいました。私は彼女の言葉を耳にする瞬間まで、そんなことをこれっぽちも考えたことはありませんでしたが、聞いたとたんにそれが真実であると直感しました。チームの一人が3月いっぱいで退社し、私も4月からは午前中だけの勤務に切り替えてもらうことになっていたため、いずれにしても私たちに残された時間は3日間でした。でも最後の日まで一緒にやる予定だったのです。

性格もバックグラウンドも年齢も全然違う三人でしたが、このチームは私の16年の勤め人生活の中で、間違いなく最高で最強でした。しかし、啓示的でもあった同僚の一言に導かれ、私は二人に語りかけました。「解散しましょう。こんなかたちでの終わりは不本意極まりないけれども、ここからのことは各人が決めましょう。生死にかかわり、会社も社員の身の安全を保障できない尋常ならざる事態の中、自分のことは自分で決めましょう。明日から出社するかしないかは各自で決めてください」。

それはその日の午後中、心の中で自問自答していたことでしたが、まさか口にするなど思ってもみませんでした。しかし、私自身が責務から踏み留まれば、後輩である後の二人はきっと義理立てしながら出社してくることでしょう。しかし、それに対して私は責任が負えないということを痛感していました。それをありがたいと思うよりも、その義理が背負い込むリスクに誰も応えられないことが不安でした。しかも、出社が意に反してのことであればなおさらです。

「来なくなることで残った者に負担がかかるのが申し訳ないからと我慢するのはやめ、来る来ないは純粋に個人の意思にしましょう。出社しなければ評価が下がり、最悪、失職することもあるでしょうから、自分の意思を通す代償はそれで支払われることになるでしょう。だから、本来とても自然な、"申し訳ないという気持ち"で意思を曲げることがないように。今はそのまっとうな気持ちに対して、会社も個人も応えられないほど非常時なんだと思った方がいいわよ」。それは私の本心でした。

私は気管支が過敏で、その頃は軽いながらも咳が出ていました。発熱もなくSARSでないことは重々承知していましたが、咳をするたびに怪訝そうな視線を投げかけられ、親しい同僚さえもビクビクしているのが痛いほど伝わってきました。医者に行って抗生物質をもらうしかありません。解散宣言の後、その足で医者に行き、「この咳を完全に止めるには?」と相談すると、「薬を飲んで十分休むこと」と言われました。

私は翌日から2日間休みました。病欠初日はもう一人も休んだので一人体制、二日目は私以外の二人体制。週末には一人が日本に子連れで帰国し、週明けの3月最終日は私一人が出社し、その日で一人が退職したため、私たちは名実ともに解散しました。その5日後の4月5日。私も子供の日本への一時退避のために機上の人となりました。そして去る28日。自らの言葉通り、"自分の意思を通す代償"に、辞表を書き、退職しました。その瞬間、あの3月26日に人生の大きな角を曲がったことに気がつきました。4月に入って知らされたところによると、あの日はまた、ニュージーランド移民局が私たちの移民申請を正式に受理した日でもあったのです。本当に素晴らしかった元同僚たちに幸あれ。

***********************************************************************************

「マヨネーズ」 結局、パート勤務は4日坊主でした。「希望していた在宅勤務が認められていれば」、とも思いますが、これも人生。16年の勤め人生活は肺炎とともに終わりました。

西蘭みこと