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Vol.0154 「生活編」 〜真夜中の一番風呂 その6〜

耳鼻科医は嗅覚を失った私に小さなプラスチックボトルに入った薬を処方してくれました。これを鼻の中の特定の位置に、朝夕1、2滴たらしていれば、2週間で何らかの効果が表れるというのです。もともと、あまり深刻になっていなかった私は、「なんだ、けっこう簡単に治るんだ!」と、内心、更に楽観的になっていました。理由はともあれ、治ってしまえばいいのです。私はホッとして耳鼻科医を後にしました。

嗅覚がなくなって困ったことは、味覚に影響をきたすことで、味付けの把握がかなり大雑把になってしまいました。やはり料理は目で見て、匂いをかいで、味を確かめるもののようです。そういう意味では、困ったというよりもお楽しみを奪われた面の方が強いかもしれません。いつもコーヒーの香りに誘われるままにフラフラッ〜と入ってしまうカフェがまったく無臭の場所となり、お墓参りでお線香をあげても、ただただ煙が立ち上っていくばかりで何の香りもないのは、情緒も何もないことでした。

一方で良い面もありました。姑から彼女にしかわからない感覚で、「あの家の前を通ると臭うでしょう?なんとなく汚いのよね」と言われても、何のためらいもなく、「そうですか〜?ぜんぜん、わかりませんが・・・」と、答えられるようになったことです。姑の意向を最大限尊重したいと思いながらも、家ごと臭うなどという非常識な見解に対し、その場しのぎの空返事としてでさえ、「そうですね〜」などと同意することはできません。ましてやそれが子供たちの前であれば、なおさらできない相談でした。

かといって、「お義母さん、家が臭うわけないじゃないですか」と言ってしまえば、話は身も蓋もなくなってしまい、私たちの暮らしはギスギスした居心地の悪いものになってしまっていたでしょう。姑は私が嗅覚を失ったことを知らされた後も、「臭い」「汚い」と繰り返しては、「そうそう、あなたにはわからなかったのよね」と言いつつ、私がそれを否定しないことで、自分の感覚に一段と自信を深めているようでした。結果論ですが、私の嗅覚がなくなったことは、双方が立場を違えずに済むという面では都合の良いものだったのです。しかし、2週間が過ぎても効果は一向に表れず、さすがに不安になってきました。

ある日、夕飯の支度をしていると、すぐ隣のリビングにいた姑が、「あ〜ら、いい匂い」と言いました。目の前で煮物がことこと煮えていても視覚と味覚でしか確かめようのない私は、いつものように「そうですか〜?」と、曖昧に返事をしました。「でも、不思議ね〜。どうしてあなた、においがわからなくなっちゃったのかしら?」と、姑が続けた瞬間、私は自分でもまったく予期せぬまま、「多分、お義母さんに関係してると思います」と、驚くほど率直に言ってしまいました。姑が慌てて読んでいた雑誌から顔を上げ、老眼鏡越しにこちらを見ているのがわかりましたが、私は料理の最中だったので、横顔のまま話を続けました。

「誤解がないよう、正直に言いますね。"お義母さんのせい"と言っているわけでは、ぜんぜんないんです。わかりにくいかも知れませんが、これはまったく"私のせい"なんです。いつもお義母さんから"臭いでしょう?""臭うでしょう?"と言われても、私には何のことなのか本当にわからなくて、「はい」とも「いいえ」とも言いたくなかったんです。でも、それがあまりにも頻繁で、とうとう私は本当ににおいがわからなくなってしまったみたいなんですよ。だから、これはお義母さんに関係していても、私自身のせいなんです。大丈夫です、香港に帰ったらきっと治ります。」 そう言って、私は姑の方に向き直りました。

普通だったらお互いの目が合ったそこで、「それじゃ、私のせいって言ってるのと同じじゃない?」と気色ばまれても仕方ない状態でした。しかし、私に対して姑が返したのは、「あら、そうなの?」の一言だけでした。内心、はらわたが煮えくり返っていたのか、本当に言葉どおりだったのか知る由はありませんが、その日の夕食もテレビを見たり、子供の話を聞いたりと楽しく過ぎ、その一件がそれ以上蒸し返されることはありませんでした。

思いがけなく洗いざらい言ってしまえたことで、姑に対してまったく隠し隔てがなくなった気分になり、精神的な重石がずい分軽くなりました。言葉にしてみて、改めて自分の思考回路がはっきりしました。@これはひとえに自分の感じ方の問題で、姑のせいにするつもりは毛頭ないこと、A香港に戻ったら治ると確信していること、B「臭い」と感情表現する彼女の習慣は受け入れがたいものの、彼女自身を尊重しようと努力していたことなど、言葉にしたおかげで、潜在的に感じていたことがはっきりしました。また、自分でもそうした感じ方を信じることができるようになったのです。「治る。絶対治る」と思っただけで、ずい分救われた気分でした。(つづく)

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「マヨネーズ」 前出の「バッちゃん」こと、セバスチャンが柔道を始めた初日のこと。それまで入会順位で最も下っ端だった善は、新人が来たことでみんなで横一列に正座する時、先生側から見て最も左手の、下座から二番目に座ることができるようになりました。ところが、セバスチャンは席順のことなど知らず、善より一つ上座にどっしりと座っています。

そこで善は彼に話しかけました。「キミはボクより新しいんだから・・」と言いたかったんだろうに、
「You are younger than me...」と言ってしまうと、6才の善より二周りは大きい8才のセバスチャンが、「I don't think so...」とこともなげに言い、会話はプチッと途絶えました。仕方なく前に向き直った善の、肩のあたりが寂しそうです。そのうち、先生が「新人は左端に座るように」と言うと、セバスチャンは「I see.」と言いながら、さっと末席に移動しました。善の後ろ姿の肩が心持ちもち上がって、嬉しそうに見えました。良かったね♪

西蘭みこと