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Vol.0161 「生活編」 〜真夜中の一番風呂 その7〜

4月から始まった日本暮らしのごく始めの頃、学校から帰ってお菓子を食べていた長男・温が、「ママ、ボクって臭いと思う?」と、突然聞いてきました。「まさか!どうして?学校で誰かに言われたの?」と、びっくりして尋ねると、「うん。"臭い"とか"日本語がヘン"って言われるよ」と、言うではありませんか! 「来たか!」ある程度は予期していたものの、危惧していた「イジメ」がやはりあるようです。「まあ"日本語がヘン"っていうのはわかるんだけどさ〜、"臭い"っていうのはなんでかな〜と思って」と、温は屈託なく言いました。

「温くん、自分で自分が臭いと思う?」と、私がまじめに聞いてみると、「ううん」と、すぐに首を振りました。「そうでしょう?毎日お着替えして、お風呂に入って、よく陽に干したお布団で寝て・・臭いわけないよね?それってさ、転校生が珍しいから、ちょっといじわるしてるだけなんじゃない?」と、あえて「イジメ」という言葉を使わずに言ってみました。「においなんかしないんだから、そんなの気にしないで普通にしてればいいのよ。あんまりひどかったら先生やママに言ってね。我慢することもないんだから」と続けると、「うん、わかった」と、ややホッとした様子でした。

"クサい"はイジメの常套句です。目に見えるものではないので、悪意を持った相手が声高に言い立てればあっという間に既成事実化しかねず、イジメの対象に対して最大限の心理的打撃を与え、根拠のない差別を定着させる言葉の凶器となります。感覚でしかない分、イジメる方にしてみれば好き勝手に使え、イジメられる方にしてみれば、反論をより一層空しくさせるという非常に残酷な言葉です。イジメる側が絶大な効果を知り尽くして手放さないがゆえ、この言葉は常套句としての地位を固めているのです。

香港生まれの、日本語に対してかなり鈍感なはずの温にですら、その意図する悪意は十分に伝わったようです。「"クサい"って言われてどう思った?」ときいてみると、「嫌だった」という、これ以上はない率直な答えが返ってきました。「そうでしょう?においなんかしないのに、そんなこと言われるのって嫌でしょう?そう思ったら、絶対に人に同じことを言ってはダメよ。みんなで集まってふざけている時でも、冗談でも、絶対にダメよ」と、念を押すと、彼は深くうなずいて、「うん、わかった」と力強く返事をしました。

「嗅覚がなくなったのは、やっぱりストレスなのかもしれない。」 そう思ったのは、1本目の薬が何の効果も表さないまま、2本目の投薬が始まった時でした。耳鼻科医は「理由はともあれ、2週間で何らかの効果が出てくる」と言っていましたが、予定の2週間を過ぎても変化はありませんでした。医者は再びやってきた私に、「そうですか。効果がないとなるとウイルス性のものではなさそうですね」と言いました。「ウイルス性でも持病でもないとすると、やっぱりストレスなんだろうか?私が鼻で笑った、あの最もお手軽な理由?」

姑の価値観を認めたいと頭では思っていても、私のからだが「臭い、汚い」という言葉を聞き続けることを拒んでいたのかもしれません。姑はトイレや布団、洗濯物など特定なものに対しては極端な潔癖症でしたが、ずぼらな私から見ても特に「きれい好き」には見えず、ガス台、冷蔵庫ほか、湯船以外のお風呂、玄関、外回りなどは、私の許容範囲を大きく越えた汚れ具合でもそのままでした。家には吸引式の普通の掃除機はなく、唯一あるじゅうたん掃除機も表面のゴミを絡み取っていくだけで、「じゅうたんや畳の中に入ってしまったほこりはどうなるんだろう?」と思いつつも、毎日それで掃除するしかありませんでした。

全体的な清潔感に大差がないのに、「臭い、汚い」という言葉を頻繁に耳にすることに対し、「たいしたことじゃない」と聞き流していたつもりでしたが、実際はそれが澱となって心に深く沈殿していたのかもしれません。子供に「おばあちゃんが嫌がるから部屋のドアを閉めておきなさい」と、心にもない事を言い渡さなくてはいけない不甲斐なさも感じていました。姑にそのつもりがまったくなくても、根拠のないこうした言葉は、イジメの常套句と変わらない効果を持っていたのかもしれません。

「これはストレスなんだ」、とうとう私はシャッポを脱ぎました。自覚はなくとも、ストレスを感じている自分を認めて、いたわることにしました。それは香港に帰る日が数日後に迫った頃でした。そう思った翌日、いつものように洗濯をしていると、本当に本当に不思議なことながら、ほんのりと洗剤のにおいがしたのです。「えっ?」と思った瞬間、全神経が鼻に集中しました。長い間まったく機能してこなかった嗅覚がゆっくりと目を覚ました瞬間です。「匂った!」、私は洗いたてのシーツに鼻を突っ込み、むさぼるように匂いをかぎながら立ち尽くしていました。(つづく)

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「マヨネーズ」 「今度の金曜日、うちに泊まらせない?兄弟二人ともOKよ。温も善も喜ぶわ〜」と、イギリス人ママと話していると、「嬉しいわ、ありがとう。うちの子もとっても喜ぶと思うわ。何せお泊りは初めてだから」と言われました。「初めて?」と驚いてききかえすと、「ええ。今まで誰にも誘われたことがないのよ」と、あっさり。「5年生だというのに、初めて?温は何度も呼んでもらってたのに?」と思うと、二の句が告げませんでした。

彼がイジメられているとは聞いていましたが、いつも明るく礼儀正しい「リトル・ジェントルマン」で、どこをどうこじつけたらイジメの対象になるのかまったくわかりませんでした。受話器を置きながら、彼とママのこれまでの心境を思い図ると目頭が熱くなってきました。一度も誘わなかった自分の落ち度への深い反省とともに、彼を誘う最初の家族となれたことへの光栄に感謝します。

西蘭みこと