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Vol.0177 「生活編」 〜アジアの彼岸〜

学校から帰った長男が真っ先に教えてくれたことは、ジャックとジェイミーがイギリスの寄宿学校に行ってしまうということでした。「まさか!」と驚く私に、「だってジョシュアが言ってたよ」と、彼らの弟の名前を挙げました。つい1、2ヶ月前に母親のエリーと話した時には、「行きたがってるけど、今は行かせないわ。まだ13歳と12歳よ!ここで手放したらもう一生一緒に住むこともないでしょう?私には準備ができてないわ。そんなの無理よ。」と言っていたのに、この急転直下。彼女の心境を察して胸が潰れる思いでした。

イギリス人の彼らが本国に帰って教育を受けることに何ら不思議はありません。しかも香港のイギリス人の間では子弟を寄宿学校に入れることはさほど珍しくなく、日本で言うところの中高一貫教育に相当するセカンダリー・スクールに入る11歳で本国に送りこむケースも多いようです。それが本人の希望であれば問題ないでしょうが、本人の意志でなければ、十分に飛べない雛を巣から放りだすことになりかねません。

ジャックとジェイミーの場合、強く希望したのは本人たちですが、問題はなぜそれを望んだかです。それこそがエリーの苦悩であり、私にとっても他人事とは思えない点なのです。エリーは前々から「学校のアジア化」を危惧していました。「例えばイギリスの歴史の授業なら、"今日は内戦について勉強しましょう。イギリスではどんな内戦があったかな?"と先生が切り出し、子供たちが手を挙げてそれに応えディスカッションが始まっていくの。でも、香港ではどう?インターナショナル・スクールだって、先生は"教科書○ページを開いて・・・"と授業を始めるでしょう?この差なのよ、気にしてるのは・・」と、具体的に語ってくれたこともありました。

香港のインターナショナル・スクールは、イギリス系、アメリカ系、ドイツ系、フランス系、カナダ系など複数あり、基本的には本国の子供を中心にそれ以外の国籍の子供たちを受け入れ、どこも文字通り国際色豊かな学校となっています。しかし、どの学校でも外国籍を持った香港人や中国本土からの中国人が多数派で、それに日本人、韓国人、台湾人などのアジア人を加えた場合、半数以上がアジア系という学校が大半で、アジア人と西洋人のハーフも多数います。そのため、各校は本国同様の教育方針を掲げながらも、実態はかなり"アジア化"傾向を強めています。

その顕著な例が、宿題の多さです。特にセカンダリーになると目に見えて増えるようで、家に帰ってから2〜3時間かけても終わらないような宿題が毎日のように出て、物によっては親がかりでないとできないものもあるそうです。アジア系の親は宿題の多さを歓迎する傾向が強く、家に帰ってからも子供を机に向かわせたいようです。その合間に、香港でも人気の学習塾・公文式に通わせ、算数や英語に磨きをかけたりしています。しかし、エリーに言わせれば、「イギリスでは宿題の多さは、いかに授業時間内で教え切れていないかの反映で、先生は資質を問われることになるわ。ましてや塾通いなんて!でもアジアでは"宿題を出すのは良い先生"で、"もう少し算数の力をつけた方がいい"などと言って先生が塾を勧めたりするでしょう?信じられないわ。」ということなのです。

「中学校の宿題で"中国のGDP(国内総生産)がどうのこうの"なんて、どうして必要なの?そんなことを知るよりも、今しかできないもっと大事なことがたくさんあるでしょう?宿題に追われて息子たちはどんどん好きなものを諦めたのよ。合唱もバイオリンもみんな辞めてしまったわ。これでピアノまで諦めたら、毎日の生活には勉強以外何も残らないじゃない!」 アジア的にたくさんの勉強を詰め込み、その消化具合で子供を振るいにかけていくやり方をエリーは本当に嘆いていました。

心から音楽を愛するジャックとジェイミーは、不満を抱きながらも他の選択肢など想像だにしていませんでした。そんな折に新型肺炎(SARS)が起きました。彼らは感染回避のための一時帰国の間、イギリス現地の学校に数ヶ月通い、はからずも自分たちに他の選択肢があることを知ってしまったのです。好きな賛美歌をずっと歌っていても構わない、室内楽のコンサートが頻繁にあってそれに向けて心置きなく練習しても構わない、小さいけれどとても温かな学校があることを・・・。

「夫がここで仕事をしている以上、私たちの生活の拠点は香港しかないの。子供の教育のために家族が離れ離れになるなんて私には耐えられないわ。子供たちについて私がイギリスに帰ってしまったら、家庭は崩壊してしまう。私はすべてを残してこの極東の地まで来たのよ。だから今の私には子供しかいないの。彼らが私のすべてなのよ!」 切々と訴えていた彼女の願い空しく、年明けには息子二人が家族を離れ、バレエが好きな三男も小学校を卒業し次第、兄たちに続いていくことでしょう。エリーの深く長い苦悩に、とうとう寂しさと虚しさが追いついてしまいました。(つづく。名前はすべて仮名)

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「マヨネーズ」 先日、知り合い親子にばったり会いました。大人同士が挨拶する傍らで、お子さんは無言で「ゲームボーイ」をしていました。「すっかり大きくなって・・・」という私の言葉にも、小さな画面に目を釘付けにしたまま。かすかにうなずいたようにも見えましたが錯覚だったかもしれません。とうとう数分の立ち話の間一度も顔を上げる事なく、別れ際もゲームを続けたまま視線さえ動かさずに行ってしまいました。親御さんはとても教育熱心でお子さんも優秀と聞いていましたが、あの姿を見てお子さんが気の毒になりました。挨拶や礼儀という生活の基本を誰からも教わらずに(教えられていたとしても実践を求められていなければ教わってないのも同然でしょう)、このまま大きくなっていくのです。

西蘭みこと