>"
  


Vol.0208 「生活編」 〜絶対幸福論〜

3月はやはり旅立ちの月なのでしょうか?先月は何人かの親しい友人から、人生の大展開を知らされました。夢破れ新天地に向かった人、平凡な生活を飛び出し学究の道に戻る人、予期せぬできごとで海外生活を断念した人、大切な人を亡くし人生を見つめ直す人、結婚とは人生とはと、身体を壊すほど考え抜いて新たな一歩を踏み出す人。みんな私にとってはかけがえのない友人です。不安と期待を胸に、新たな人生を切り開こうとする彼らに今回のメルマガを贈ります。
(←遠い彼らへの花束に代えて)

いつの頃からか、気が付いたら「絶対幸福論」というものを自分の中心に据えていました。これは読んで字のごとく、絶対的に幸福だと信じることです。この世に生を受けること自体が祝福された喜ばしいことであると信じられれば、何もこんな論議を持ち出すこともないのでしょうが、赤子から子供になり成人していく過程の中で、私達は喜びを忘れ、その代わりにひがみや妬み、虚飾や欺瞞、不満や諦めを覚えていきます。「いつまで経っても生活が楽にならない。」「どうして自分は貧乏くじばかり引くのか?」「病に苦しめられている。」「なぜ愛する人を失うの?」「誰からも愛されないのはどうして?」「夢はいつもかなわない。」「仕事は辛く、家庭は息苦しく、身の置き場がない。」、などと。

しかし、私は後天的に学んだ否定的な感情を超え、やはり人間は絶対的に幸福なんだと信じています。例えば事故で足を一本失ったとします。それ自体は大変辛い経験ですが、失ったものは諦めるしかありません。その代わり、「良かった足で。車椅子は大変だけど、腕を一本持っていかれるよりはいいだろう」と、考えます。では、腕を一本失ったとしたら、今度は「良かった、左で。利き腕の右はまだ使える」と、考えます。では、腕も足も失ったら、「良かった、自分で。子供でなかったのは幸いだ」と、考えます。

詭弁?確かにそうかもしれません。けれど騙す相手は自分自身です。しかも、良い方向に。こう考えていけば、どんな絶望の中にも必ず光が見つけられます。要はその光を本人が信じるかどうかです。リストラされたら→「いつクビになるかヒヤヒヤする生活から解放された」、夫や妻が浮気をしたら→「離婚するよりいいかもしれない」、罪を犯したら→「ここで見つかって、止められて良かった」、破産したら→「もう逃げ回って苦しむ必要はない」、大病をしたら→「死ぬよりまし」と、救われる方へ、救われる方へと読み解いていきます。

これらの深刻な問題は一筋縄ではいかないことばかりで、他人が気軽に口にすべきことではないかもしれません。しかし、立ち直れそうもないほどの問題に直面した人でも、やはり毎日を生き、暮らしているではないですか! そのためには、時がかなりを癒してくれるはずです。問題が起きた時と同じ衝撃を、半年も1年も持ち続けることはできないでしょう。苦しみや悲しみはもちろん残りますが、姿かたちを変えて、日々の生活の中で何とか共棲できるようになっていくはずです。傷ついた自分というものも、大切に受け止めましょう。しかし、本人に問題をあるがままに見つめる率直さと、それを克服しようという強い意志がある限り、人間にとって乗り越えられない困難はないのです。

偉そうなことを書いていますが、これらは大切な友人達が筆舌に尽くしがたいほどの経験を通し、身をもって教えてくれたことです。私は彼らの経た道と行き着いた結論を心から尊重し、友人であることを誇りに思っています。ある人は絶望のあまり川べりに行った時のことを正直に話してくれました。ホームレスの人の段ボールハウスがいくつも並び、それがなかなか上手に造ってあったそうです。ドアや窓まであり、雨よけにも工夫が凝らされています。思ったより小ぎれいで、広く快適に見えたそうです。

「そうか!いざとなったらここに来ればいいんだ」と、ふと解放されるような気持ちになった瞬間、思わず身震いし、「な、何を考えてるんだ、オレは。そんなことをするために今までがんばって来た訳じゃないだろう?」と、慌ててその場から逃げ帰ったそうです。彼の夢は破れました。最初の5年間だけは順調でしたが、あとの11年間は坂道を転げ落ちるように悪くなるばかりで、辛く過酷なものでした。しかし、彼にはやり直そうという動かしがたい意思があり、私ごときに赤裸々に語ってくれる率直さもありました。

しっかりと目を見開いていれば、何かを失った分、何かを得ていることに気付くはずです。人の情けを知り、誰が、何が本当に大切かを知り、弱い自分を知り、温かい家族の存在に気付き、いかに見栄と意地に生きてきたかを思い知らされ、正直になることの強さを学び、不平不満が発想の転換というスイッチ一つで消えることもわかり、愛を知り、真実に気付き、たくさんの感謝と感動に出会うことでしょう。そして自分にはまだ与えられる何かが残っていると感じた時、私達は失ったものを克服しているのだと思います。

先の友人は言います。「本当に何もかも上手く行かなかったけど、あの11年間は無駄じゃなかったと思う。日に3つの仕事で食いつなぎながら、社会のいろんな階層の人と働き、時には蔑まれ、辛く当られ、ずい分勉強したよ。そうでなければ、オレはぼんぼんのまま、一生鼻持ちならない嫌なヤツだったと思う。もちろん、いい人にも出会ったしね。」 若くして人生の辛酸を舐めながらも、最後はとても穏やかな気持ちで新天地に飛び出して行った彼の幸運を祈らずにはいられません。見る意思があれば、幸せはすぐそばにあるのです。

***********************************************************************************

「マヨネーズ」 「どうしてこんなに素晴らしい人に?」と思われるような人にこそ、不幸が見舞う気がします。しかし、彼らは懸命に粘り強く対処し、最後は「そんな手があったか!」と感動する方法で、元より高い位置に飛躍していきます。これって使命なんでしょうね。

西蘭みこと