Vol.0350 NZ・生活編 〜21世紀のその日暮らし〜             2005年10月11日

ある男がヤシの木陰で昼寝をしている男に聞きました。
「なぜ働かないのか」と。
木陰の男は聞きました。
「なぜ働かなくてはいけないのか」と。
男は答えました。
「金持ちになるためさ。」
木陰の男はまた聞きました。
「なぜ金持ちにならなくてはいけないのか」と。
男は答えました。
「金持ちになって働かなくてもいいようになるためさ。」     
(昼寝はできなそうですが、近所には一応こんなヤシも↑)
もちろん木陰の男はそのまま昼寝を続けました。

有名な小話なので、ご存知の方も多いことでしょう。これを書いたのは、2002年4月メルマガ「私的21世紀の暮らし方」ででした。あれから3年半。本当にいろいろなことがありました。2003年3月に移住申請、4月にSARSで日本へ一時退避、それを機に退社、2004年には移住実現。今年2005年には念願の永住権取得。こうして書き出してみると、なんだか順調にここまで来たかのようですが、実際は山あり谷ありでした。 

当時の私は昼寝をしている男を夢見ながら、「なぜ働かないのか」と自問する男でもありました。今から12年前のテ・アナウでの啓示的なひと時を忘れられずにいながら、2人の男の間で揺れ動いていました。咽から手が出るほど欲しかったのは、お金ではなく時間でした。「子どもが生まれてからの時を、専業主婦としてもう一度生き直したい」と夢想してさえいました。それでも、なかなか仕事を辞める決心はつきませんでした。この先はメルマガ「女の蓄え」の通りです。

素晴らしい場所であっても、バカバカしいほど物価高な香港。生活を維持していくために夫婦で自転車操業を続けながら、「この先に何があるんだろう?子どもの成長?ささやかなキャリア?静かな老後?」と思ってみても、自転車をこぎ続けるにはどれも説得力のない話でした。けれど、こぎ続けて収入さえ得ていれば、問題を先送りするための時間稼ぎはできました。私は昼寝をしている男を夢見ながらも、そうする勇気がありませんでした。

今の私も昼寝をしている男からはほど遠いものの、「なぜ働かないのか」と、自問することはなくなりました。在宅で仕事を続けているとはいえ、家業の方は夫が中心です。以前の朝から晩までのフルタイムの労働を「仕事」と呼ぶなら、今は働いていないも同然に見えることでしょう(笑) 実際、キウイの友人からは、
「仕事を辞めてから、ロクな仕事してないんだろう?」
と言われ、日本の友人からは
「あなたがこのまま終わってしまうなんて!」
「そろそろ仕事を再開しては?」
とも言われてもいます(自爆) そのたびに、彼らの目の付け所に感心しながら、私はニヤニヤ。内心、
「やっと手にした時間を、そうそう手放せるもんか!」
と、舌を出しながら。

起業したばかりの上、私は勝手に「収入」より「時間」を選んでいるとなると、いくら夫ががんばってくれていても西蘭家の世帯収入はガタ減りです。香港時代に比べれば8分の1くらいでしょうか? 
「それで暮らしていけるの?」
「NZの物価ってそんなに安いの?」
と、訝る友人たち。足りない時はためらいなく貯金を取り崩し、思ったほど安くはない物価の中で「2000円暮らし」を続けることで、つつがなく幸せにやっています。

手にした時間のありがたみを思えば、失った収入に未練はありません。ほとんどの収入を失っておきながら、「未練がない」とは「武士は喰わねど高楊枝」のやせ我慢、負け惜しみと思われることでしょう。けれど、つける薬がないほど、本気でそう思っています。この1年、いえ、より広義に言えば、職を辞してからの2年半で、確実に気づいたことがあります。それは、「あるがままに身を任せていれば、必要なものは手に入る」ということです。

こんな狐につままれたようなことを言われても、貧乏人のほざき、行くところまでイッちゃった人の戯言に聞こえるかもしれませんね(笑) しかしながら、とことん現実的な私が観念して認めざるを得ないほど、何度も何度も同じことが起きました。必要なものはお金にしろ、物にしろ念じればかなりが手に入りました。まだ、いろいろ試している最中ですが、きっと健康もそうなんでしょう。ただし、それが本来、自分のところに来るべきものではないものなら、いくら念じても手にできません。寿命であれば健康も失われます。

「必要なものを手に入れる」にはいくつかルールがあるようです。

まず、「必要以上に求めないこと」。
どこまでが必要で、どこからが見栄や欲なのかを厳格に線引きする必要があります。高価で一見贅沢に見えても、それが自分にとって本当に必要であるならば手に入るようです。

次に、「分かち合うこと」。
これは「蜘蛛の糸」の話の通りです。細い蜘蛛の糸に大勢の人間がぶら下がるという理論的ナンセンスを越えて、分かち合いを実践することです。そこには人智の及ばない真理があるように感じています。

最後に、「運命を信じること」。
何よりも「必要なものは手に入る」と信じること。その上で努力し、それでも手に入らなければ、自分のところに来るべきものではなかったのだと信じること。焦らなければいつか必ず、「いかに必要なかったか」を知ることができるようです。まさに、「人間(じんかん)万事塞翁が馬」。

今の私は、その日暮らしです。進歩した現代人が最も避けたがる暮らしです。しかし、それは手から口への貧しい過去への後退ではなく、人間の可能性を謳歌する21世紀の新しい暮らし方ではないかと漠然と感じ始めています。ここにきて、ヤシの木陰で昼寝している男に一歩近づいてきました。(つづく)

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「マヨネーズ」 これはあくまで私の考えで、夫は事業の成功、ここでの暮らしの安定を経ての幸せを目指しているようで、とても20世紀的。私はとっくに幸せです。

西蘭みこと